関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2401谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」8 五奉行制の萌芽

<<   作成日時 : 2018/09/22 10:46   >>

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 8月11日に米原市の大原観音寺で行われた、谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」の「第四章 関ヶ原への道」の中で、秀吉の死の直前、五奉行に選ばれたものの、少なくとも5年前くらいから同様の位置にあったと指摘されていました。
 この点について、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、文禄5年(1596)1月23日付の秀吉・秀頼宛ての長束正家・石田三成・増田長盛・前田玄以血判起請文が「いまだ浅野長吉(長政)の名は見えないものの、後年の『五奉行』制の萌芽とみることができる」と指摘されています。
 すなわち、「この起請文から看取されるのは、連署者間の連帯と排他性であろう。秀吉の命を実行する奉行という職責は従前のままだが、少なくとも当事者間においては組織性が高まっており、その上での排他性も強く意識されている。単に秀吉の命令を伝達するという存在から、特権的な『衆』として政策の枢機に関わっていくという意思表示を汲み取ることができる」と。
 このことに関して、大阪城天守閣発行の図録「秀吉家臣団」で、文禄3年7月17日付の豊臣氏四奉行連署状が挙げられています。この時のメンバーも浅野長吉を除いた四奉行です。書状の内容は次のようなものです。
 「きたる8月1日、聚楽第を訪問される太閤様の車を騎馬にて護衛するよう命令が出ました。いつものように用意して、お供してください」と。
 この書状についてご 図録には、「このときの聚楽第(関白秀次邸)訪問は、秀吉から秀次への代替わりを演出するための国家的行事として企画されたものである。彼ら四人が、秀吉のそばで準備の実務にかかわっていたのだろうか」と解説されています。
 中野氏の見解に従えば、この書状は「特権的な『衆』として政策の枢機に関わっていく」という点ではまだ弱く、血判起請文の方が、より鮮明な気がします。
 講演会では、三成が七将の襲撃を受け、その責任を取らされて失脚した時、涙を流したという説明がされていました。涙を流したのは誰かということについては、谷氏の同書で論じられており、このことについては拙ブログでも取り上げました。
 引退後の三成は、息子を大坂の秀頼のもとに仕えさせ、家康とも「御懇意」の状況だったが、その一方で、佐和山城の普請も行うなどの動きも確認できると説明されていましたが、このあたりのことも谷氏の同書に詳しく記されていますし、このことについても拙ブログで触れています。

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