関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2405 番組「英雄たちの選択 島左近」 3 熱田進出という秘策

<<   作成日時 : 2018/09/26 10:29   >>

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 番組「英雄たちの選択 三成の軍師・島左近奮戦す」で、関ヶ原の戦いの際、左近は赤坂にいる家康らに夜襲をかけるべきであったか、関ヶ原方面に転進するべきであったか、出演者にどちらか選択を迫っていましたが、司会者の磯田道史氏は夜襲案を強く主張されていました。夜襲が三成方の唯一の勝機であり、家康を討ち取ってしまえば、息子の秀忠は凡庸だからたいしたことはないという見解でした。
 もっとも、前から拙ブログで述べているように、夜襲案を三成方が考えていたという一次史料はなく、後世の創作の疑いが強いですから、磯田氏にはそういう史料の信憑性にも触れてほしかった気がします。
 さて、番組で、三成が大垣城に進出した時、島左近が熱田進出という新たな秘策があったということが示されており、注目しました。典拠は「佐々部一斎留書」であり、その中に「今度の合戦、尾張の熱田を本陣にして某(それがし)が先手となり一戦仕るべく候」という記述です。左近は本陣は大垣城ではなく、熱田に移すべきだと進言したと。東海道は熱田から桑名まで海路となり、江戸時代は七里の渡しと呼ばれていたこと、熱田に布陣すれば干潟が天然の防御施設となり、西に向かう敵の大軍勢を食い止めることができるのではないかと考えたこと、しかし三成は左近の進言を退け、その史料では、戦後になって「左近の申す通り尤もか」と残念がっていること、家康方はそのため岡崎城から熱田を通り過ぎ、清洲城に入ったこと、このため三成が尾張・三河の国境付近で敵を攻撃しようという計画は頓挫したことなどが述べられていました。
 三成が当初、尾張・三河の国境あたりで家康方を討ち取ろうとしていたということは、8月6日付の真田昌幸宛ての三成書状、8月7日付の佐竹義宣宛ての三成書状に記されていますし、番組でも紹介されています。
  佐々部一斎は毛利家の家臣であり、「留書」にどれだけの信憑性があるかは検討の余地はありますが、この記述が正しいとすると、三成は福島正則の居城である清州城を開城するよう説得している時でしたから、それが先だと考えたかもしれません。福島正則は、秀吉の姻戚であり、豊臣公儀を標榜している三成方にとっては、正則を味方に取り組むことが肝要であり、可能ではないかと考えていたのかもしれません。それに大垣城は堅固であるのに対して、熱田に本陣を置くのは守りとして不安に感じたこともあったということも考えられます。
 またうがった見方をすれば、この時、三成が左近の進言に耳を貸さなかったことから、秀吉死後、左近が家康暗殺を進言するも、三成は同意しなかったという話が出来上がっていったのかもしれません。会津攻めで家康が東下した際、左近が水口で襲おうとしたという話にしても、家康は三成のことを警戒しなかったふしがありますから、この逸話も後世の創作の可能性もある気がします。

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