関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2382 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」72 「総論」72 捕縛場所・佐和山落城

<<   作成日時 : 2018/09/03 10:34   >>

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  谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、関ヶ原の戦いの後、三成が捕縛された場所について、「近江古橋村が有力視されている」との太田浩司氏の見解が取り上げられています。
 この点について、太田氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)の中で、捕縛場所について諸書にさまざまに記されていることが述べられています。オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「近江・古橋の章」で、古橋に伝わる三成関連の伝承について詳しく述べられています。
 佐和山城攻めについては、谷氏の同書には、「三成妻子や正継・正澄、宇多頼忠父子らが自害し、天守に火がかけられた」と記されていますが、三成の妻子については、佐和山で自害していないことが白川亨氏によって指摘されています。すなわち、宇多頼忠の娘である三成の妻は佐和山から落ち延びて生き残り、会津若松で亡くなっています。また三成の長男の重家は出家して、妙心寺寿聖院の住職となり、寿聖院三世を務めています。次男の重成は津軽に逃れ、杉山源吾と名を変え、津軽藩に取り立てられ、その子孫は家老にまでなっています。三男の左吉は、出家して甲斐の河浦山薬王寺十六世の住職となっています。長女はすでに山田勝重に嫁ぎ、正保4年に69才で亡くなっています。次女は上杉家臣の岡半兵衛に嫁ぎ、孫娘は徳川家光の側室お振りの方になり、その娘の千代姫は尾張藩主に嫁いでいます。三女の辰姫は、関ヶ原の戦いの後、北政所の養女となり、津軽藩2代藩主の信枚に嫁いで、後に3代目藩主となる信義を生んでいます。
 「天守に火がかけられた」ということについては、谷氏の同書の【註】に、慶長5年9月28日付の結城秀康書状の記述が、根拠として挙げられています。この書状は、よく取り上げられていますが、佐和山城の天守に火がかけられたことを示す唯一の史料です。
 佐和山落城については、谷氏の同書には、「開城に近く、多くの犠牲者が出たとは考えにくい」という太田氏の見解が紹介されていますが、「当時の史料には『一人も不残うちとり申候』とあり、実際の戦死者は相当数にのぼったのではないだろうか」と指摘されています。
 佐和山には、たくさんの婦女子が飛び込んだという女郎谷の話が残っていますが、太田氏の同書では、「伝承のように大量の死者が出たかは大いに疑問であり確証がない」、「思い半ばで敗死した三成の悲劇が、この佐和山落城にオーバーラップし、多くの犠牲が出たという伝承を生んだのではなかろうか」と指摘されています。
 このあたりも、実際どうだったのか、今後検討の余地があります。

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