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zoom RSS 三成の実像2409「英雄たちの選択 大谷吉継」4 磯田道史氏・土山公仁氏の見解

<<   作成日時 : 2018/09/30 11:16   >>

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 番組「英雄たちの選択 大谷吉継」で、三成が吉継が家康に対して吉継に挙兵することを打ち明けた時、三成の提案を拒否して家康との戦いを回避すべきか、三成と共に挙兵すべきか、とぢらを選択するかを、出演者に問うていましたが、磯田道史氏は挙兵は勧められず、本当にいいのは家康暗殺だという論を展開していました。
 すなわち、家康を大坂城に呼び出して暗殺し、息子の秀忠も上方にいる時、屋敷を包囲し、焼き討ちにすれば、手練れた重臣たちも討ち取ることができたのに、そういう方法を取らなかったから秀頼が生き残れなかったと。
 これに対して、小谷賢氏は、家康の立場からすれば、いつやられるかわからないから用心深くしているはずだと反論されていました。この反論はもっともだと思いますし、嶋左近が家康暗殺をたびたび三成に進言したという話も、現実性があったとは思えず、後世の作り事だという気がしています。家康の周りには家臣だけでなく、家康寄りの武将もいましたから、暗殺は不可能だったのではないでしょうか。
 番組では、吉継の選択として、三成の提案に対して、十日悩んだ末、挙兵を決意したと説明されていました。本当に十日間悩んだのか、誘いをかけたのが三成の方であったのか、前にも拙ブログで述べたように、後世の史料ではなく、一次史料からの検証が必要だと思われます。
 それはともかく、吉継が挙兵を決意したことについて、土山公仁氏の見解が番組では紹介されていました。
 すなわち、吉継は負けるとわかっていて、一か八かで挙兵したわけではなく、秀頼を旗頭にすれば、三成が嫌いな武将もいるけれども、豊臣家のためということであれば、豊臣恩顧の武将は一枚岩になり、加藤清正や福島正則なども豊臣家のために戦うと信じて挙兵したと。
 豊臣恩顧の武将たちが、自分たちに味方してくれるのではないかと思っていたのは、三成も同じだったと思われます。それがよくうかがえるのは、三成が大垣城に進出した時、福島正則の居城である清洲城を開城させるべく使者を派遣して説得に当たっています。この時、正則は家康に従って会津攻めに東下して留守でしたが、本来なら、開城を拒否した清洲城をすぐに攻める方法もあったはずですが、そうしなかったのは、正則らを取り込めると判断したのでしょうし、彼らが付いてくれることで政権の正統性が保たれると考えたからでしょう。そういうふうに三成方がもたもたしている間に、正則たちは清洲城に入り、彼ら家康方武将が岐阜城を落城させるという展開になったわけですから、三成の判断は甘かったと云えるかもしれませんが、清洲城を攻めるにはある程度の軍勢がいると考えていたことが、8月5日付の真田昌幸宛ての三成書状からわかります。その書状には、正則が従えば三河に進出し、また抵抗すれば伊勢方面軍と合流して、清洲城を攻撃すると記されています。

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