関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2383 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」73 「総論」73 江戸時代の語られ方1

<<   作成日時 : 2018/09/04 10:08   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」の「おわり」に、江戸時代以降の三成の語られ方について触れられています。
 「寛文3年(1663)の序をもつ写本の『慶長軍記』では、三成は悪人でありながら、『将』として評価されているという。一方、元禄11年(1698)に刊本が出版された『石田軍記』は関ヶ原軍記の一種であり、後には絶版書となった。この書物には三成を悪人として、家康の徳を称える表現が多く見られるが、作者の真意は当代政治批判にあったとされる。17世紀末段階においては、三成を表立って賞賛することは禁忌であったのだ」と記されています。
 「石田軍記」が、「当代政治批判にあった」とするのは初めて知る見解であり、「石田軍記」の中で三成はさんざんに悪く描かれています。安藤英男氏の「石田三成ーその人物と軌跡」(安藤氏編『石田三成のすべて』【新人物往来社】所載)には、次のような例が挙げられています。
 「『名将言行録』には、『三成、美少年にして秀吉の寵を得たり』とあり、『石田軍記』にも『即ち召して夜閨(やけい)を共にし、玉枕を比(なら)べさせ給ひ』とあるが、『石田軍記』は三成を徹底的に姦物に仕立てあけようとしたもの、『名将言行録』の記事はこれに基づいたと思われるので、とりとめのない妄説である。秀吉は女性にかけては相当なものであったが、男色の趣味は全くなかった。したがって三成が寵愛されたのは、おのずから他に理由がある」こと、さらに秀次事件でも、「『石田軍記』は、三成の仕組んだ罠だといっている」ことなど。
 秀次事件が三成が仕組んだ罠だという捉え方は、秀次や処刑された妻子を祀った瑞泉寺の縁起にも「石田三成の姦計」と記されており、上田秋成の「雨月物語」の「仏法僧」でも、秀次の亡霊が高野山に出現し、三成や増田長盛を呪うという話が出てきますが、これも三成関与説が定着していた証です。これらのことは、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「紀伊・高野山」の章で記しました。ちなみに、「雨月物語」は18世紀後半の作品です。江戸時代には徳川幕府の正統性を主張する意味からも、関ヶ原の戦いは「石田の乱」という言い方がされ、三成が無用な戦いを起こしたのみならず、それがやがて淀殿と共に、豊臣家を滅ぼす元凶になったのだという捉え方がされました。二人とも姦物扱いだったわけです。
 千利休切腹事件、蒲生氏郷毒殺事件(実際は、氏郷は毒殺されたのではなく、病死でしたし、三成にアリバイもあります)、小早川秀秋転封事件などにも、三成が関わったとされたのは、江戸時代に形成された(当時からそういう噂があったのは事実ですが)ものであり、その説が今なおまかり通っているきらいがあります。

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