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三成の実像2409「英雄たちの選択 大谷吉継」4 磯田道史氏・土山公仁氏の見解
 番組「英雄たちの選択 大谷吉継」で、三成が吉継が家康に対して吉継に挙兵することを打ち明けた時、三成の提案を拒否して家康との戦いを回避すべきか、三成と共に挙兵すべきか、とぢらを選択するかを、出演者に問うていましたが、磯田道史氏は挙兵は勧められず、本当にいいのは家康暗殺だという論を展開していました。  すなわち、家康を大坂城に呼び出して暗殺し、息子の秀忠も上方にいる時、屋敷を包囲し、焼き討ちにすれば、手練れた重臣たちも討ち取ることができたのに、そういう方法を取らなかったから秀頼が生き残れなかった... ...続きを見る

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2018/09/30 11:16
三成の実像2408「英雄たちの選択 大谷吉継」3 萱野稔人氏・外岡慎一郎氏の見解
 番組「英雄たちの選択 大谷吉継」で、三成が吉継が家康に対して吉継に挙兵することを打ち明けた時、三成の提案を拒否して家康との戦いを回避すべきか、三成と共に挙兵すべきか、とぢらを選択するかを、出演者に問うていましたが、哲学者の萱野稔人氏も次のような理由で挙兵に賛成していました。  吉継は上杉攻めに調停役として参陣しようとしており、その目的は上杉氏が負けないようにするためであり、家康が勝って力を持ってしまうと、豊臣政権の合議制が崩壊してしまうので、この挙兵の場合も、家康に勝つ必要はなく、家康との均... ...続きを見る

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2018/09/29 10:49
三成の実像2407 番組「英雄たちの選択 大谷吉継」2 小谷賢氏・中野信子氏の見解
 番組「英雄たちの選択 大谷吉継 関ヶ原もう一つのシナリオ」で、昨日付の拙ブログでも触れたように、三成が吉継が家康に対して吉継に挙兵することを打ち明けた時、三成の提案を拒否して家康との戦いを回避すべきか、三成と共に挙兵すべきか、どちらを選択するかを、出演者に問うていました。  後者の見方に立つと、五大老の前田、宇喜多、上杉が次々と消えて行けば、家康の力が増し、いずれ家康が天下を奪うこともありえるので、吉継は挙兵して家康をたたいた方がいいというものだと解説されていました。  この選択に対して、... ...続きを見る

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2018/09/28 00:16
三成の実像2406 番組「英雄たちの選択 大谷吉継」 1 挙兵するか家康との戦を回避するか
 BSの番組「英雄たちの選択 大谷吉継 関ヶ原もう一つのシナリオ」では、三成が吉継が家康に対して吉継に挙兵することを打ち明けた時、三成の提案を拒否して家康との戦いを回避すべきか、三成と共に挙兵すべきか、どちらを選択するかを、出演者に問うていました。  この選択を問うこと自身、やはり問題があるかもしれません。挙兵に関する三成と吉継とのやりとりは一次史料に基づくものではなく、後世の史料に出てくるものであり、それを現在のわれわれは真に受けていますが、本当にそうであったかは、検証が必要です。  前に... ...続きを見る

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2018/09/27 11:05
三成の実像2405 番組「英雄たちの選択 島左近」 3 熱田進出という秘策
 番組「英雄たちの選択 三成の軍師・島左近奮戦す」で、関ヶ原の戦いの際、左近は赤坂にいる家康らに夜襲をかけるべきであったか、関ヶ原方面に転進するべきであったか、出演者にどちらか選択を迫っていましたが、司会者の磯田道史氏は夜襲案を強く主張されていました。夜襲が三成方の唯一の勝機であり、家康を討ち取ってしまえば、息子の秀忠は凡庸だからたいしたことはないという見解でした。  もっとも、前から拙ブログで述べているように、夜襲案を三成方が考えていたという一次史料はなく、後世の創作の疑いが強いですから、磯... ...続きを見る

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2018/09/26 10:29
三成の実像2404 番組「英雄たちの選択 島左近」 2 関ヶ原方面への転進の理由
 番組「英雄たちの選択 三成の家臣・島左近奮戦す」で、関ヶ原の戦いの際、左近は赤坂にいる家康らに夜襲をかけるべきであったか、関ヶ原方面に転進するべきであったか、出演者にどちらか選択を迫っていましたが、この二択は無理があると昨日の拙ブログで述べましたが、大垣城籠城戦か関ヶ原方面転進かという選択にすべきでなかったかと思っています。  家康は大垣城を水攻めにすることも考えていましたが、結局、後詰の南宮山攻撃をするつもりだったことが、白峰氏によって指摘されています。しかし、南宮山の吉川広家は攻撃される... ...続きを見る

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2018/09/25 10:35
三成の実像2403 番組「英雄たちの選択 島左近」1 夜襲か関ヶ原転進かという無理な選択
 BSの番組「英雄たちの選択 三成の軍師・島左近奮戦す」で、関ヶ原の戦いの前夜、左近は赤坂にいる家康らに夜襲をかけるべきであったか、関ヶ原方面に転進するべきであったか、出演者にどちらか選択を迫っていましたが、この二択は無理があると思いました。  そもそも、夜襲を考えようとしていたというのは、江戸時代に書かれた書物に出てくる話であり、一次史料で確かめられたものではありません。この点については、桐野作人氏の「真説 関ヶ原合戦」(学研M文庫)で、この話は創作の疑いが濃いと次のように指摘されていますし... ...続きを見る

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2018/09/24 10:55
三成の実像2402 谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」9 関ヶ原の戦いの再検討・三成祭でも講演
 8月11日に米原市の大原観音寺で行われた、谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」の「第四章 関ヶ原への道」の中で、関ヶ原の戦いの再検討ということで、最近の新しい見解についても触れられていました。  すなわち、家康との対決に積極的だったのはむしろ毛利輝元や宇喜多秀家であったとする見方、当時の史料に出てくる戦闘の中心は「山中」であり、「山中合戦」と呼ぶのが正しいのではないかとする見解、小早川秀秋は開戦直後に裏切ったという見解など。  谷氏の同書に記されているように、最初の見方は水野伍貴氏によっ... ...続きを見る

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2018/09/23 10:52
三成の実像2401谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」8 五奉行制の萌芽
 8月11日に米原市の大原観音寺で行われた、谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」の「第四章 関ヶ原への道」の中で、秀吉の死の直前、五奉行に選ばれたものの、少なくとも5年前くらいから同様の位置にあったと指摘されていました。  この点について、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、文禄5年(1596)1月23日付の秀吉・秀頼宛ての長束正家・石田三成・増田長盛・前田玄以血判起請文が「いまだ浅野長吉(長政)の名は見えないものの、後年の『五奉行』制の萌芽とみることができる」と指摘されています。... ...続きを見る

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2018/09/22 10:46
三成の実像2400 谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」7 秀吉の意図にそぐわない動きも
 8月11日に米原市の大原観音寺で行われた、谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」の「第三章 三成の実物像」の中で、諸事件における三成についても触れられていました。  千利休の切腹については、三成が奉行の一人として妻子を尋問し、妻を拷問させたという噂が広まったが、これは誤報だったと説明されていました。このことは谷氏の「総論 石田三成」で詳しく述べられていますし、拙ブログでも取り上げました。実際に三成が取り調べたのは利休の妻の宗恩だけであり、しかも宗恩はこの後も存命しています。  二十六聖人殉... ...続きを見る

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2018/09/21 10:27
三成の実像2399 谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」6 書状の宛先・佐和山支配
 8月11日に米原市の大原観音寺で行われた、谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」の「第一章 三成の一族」の中で、三成書状の宛先の内訳が示されていました。一番多いのは島津忠恒宛てのものが17通、真田信幸宛のものが16通、島津義弘宛てのものが14通、上杉景勝宛てのものが10通、直江兼続宛てのものが9通、相良頼房宛のものが8通、長束正家宛てのものが7通といった具合です。  三成は島津氏、上杉氏、相良氏の取次でしたから、それらの家中への書状が多いのは当然かもしれませんが、一番多いのが、島津氏の跡継ぎ... ...続きを見る

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2018/09/20 10:52
三成の実像2398  谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」5 茶・鷹はキーワード 政権の中枢
 8月11日に米原市の大原観音寺で行われた、谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」の「第一章 三成の一族」の中で、「家族も政務などを補い合って三成をサポートしていた」と結論付けられていました。  三成が佐和山に隠居する時も、兄の正澄が豊臣政権にとどまっていたからこそ、後事を託すことができたと思われます。自分の嫡子の重家のことも正澄に頼んだに違いありません。  谷氏の講演では、さらに「三成が鷹狩り途中の秀吉に茶を献じたことをきっかけに、仕官したとする、いわゆる『三献茶』」のエピソードについて、... ...続きを見る

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2018/09/19 00:06
三成の実像2397  谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」4 母・瑞岳院の人物像・葬儀
 8月11日に米原市の大原観音寺で行われた、谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」の「第一章 三成の一族」の中で、三成の母の瑞岳院については、次のように述べられていました。  「三成・正澄らがその死を悼み、盛大な葬儀・法事をし」、「とても慕われていた」のではないかと。  瑞岳院が亡くなったのは、文禄3年9月3日、葬儀が大徳寺の三玄院で行われたのは、同年10月22日だと谷氏の同書に記されています。命日については、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)にも中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文... ...続きを見る

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2018/09/18 01:19
三成の実像2396  谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」3 兄・正澄の事績
 8月11日に米原市の大原観音寺で行われた、谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」ですが、第一章で三成の一族について述べられ、三成の兄の正澄については、次のように述べられていました。  「三成と同様、秀吉の家臣として活躍。『執政之重臣』と称される」、「三成の後に堺政所にも就任、多忙な三成の代わりに諸大名をもてなすことも」あったと。  「執政之重臣」と評したのは藤原惺窩だということが、谷氏の「総論 石田三成」に記されています。また谷氏の同書では最初、「正澄代官所は河内にあった」と推定され、「後... ...続きを見る

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2018/09/17 11:13
三成の実像2395  谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」2 父・正継の人物像 
 8月11日に米原市の大原観音寺で行われた、谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」ですが、第一章で三成の一族について述べられていました。  石田一族について、「先祖代々、京極氏・浅井氏に仕える地域の有力武士(地侍・土豪)」であり、青蓮院門跡領の代官を務めたと述べられていました。このことは谷氏の「総論 石田三成」の中でも記されています。  大原観音寺文書の中にある、石田氏に関する一番古い史料として、応永26年(1419)に観音寺本堂造立への寄付の人名に「石田東殿」という記載があることが挙げられ... ...続きを見る

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2018/09/16 11:02
三成の実像2394  谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」1 江戸時代はずっと悪者?柿が嫌い?
 8月11日に米原市の大原観音寺で行われた、谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」ですが、基本的には「総論 石田三成」の内容とほぼ重なっており、コンパクトにまとめられたものでした。若い新進気鋭の学者さんであり、歯切れもよく、明快なわかりやすい講演内容でした。  最初に、谷氏はもともと蒲生氏郷に興味を持っており、氏郷を暗殺したのが三成だという話があっただけに、あまりいいイメージを持っていなかったと語っておられました。しかし、研究を続けて行くうちに、それは冤罪であることがわかったと云います。この点... ...続きを見る

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2018/09/15 11:01
三成の実像2393「シリーズ 石田三成」83「総論」83 使僧の活用5 本願寺との関係
 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」の「豊臣政権の三成」の中で、「使僧の活用」と題して、その実態が考察されていますが、その続きです。  秀吉や三成らが、使僧を家臣にしたことについて、次のような見解が示されています。  「譜代家臣を有していなかった秀吉や秀次、三成らにとって、寺社やその関係者は重要な人材の供給源であったといえよう」と。  三成の家臣団については、中井俊一郎氏の「秀次・蒲生牢人を吸収、三成苦心の家臣団構成」(『歴史群像シリー... ...続きを見る

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2018/09/14 10:54
三成の実像2392「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」82「総論」82 使僧の活用5 
 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」の「豊臣政権の三成」の中で、「使僧の活用」と題して、その実態が考察されていますが、その続きです。  三成が多くの使僧を活用していた例として、寺内織部の他、「使僧を安全に送り届けるよう、真田昌幸家臣の矢澤綱頼や芦名氏家臣の河原田盛次に対して、依頼をしているのが確認できる」と指摘されています。  その典拠として、谷氏の同書の【註】には、天正13年10月18日付の三成書状写、天正18年1月13日付の三成書状写... ...続きを見る

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2018/09/13 10:54
三成の実像2391「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」81「総論」81 使僧の活用4 寺内織部4
 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」の「豊臣政権の三成」の中で、「使僧の活用」と題して、その実態が考察され、天正17年に三成が芦名氏と音信を行う中で、交渉を担当した寺内織部という人物についての履歴が述べられていますが、その続きです。  「織部は天正18年の小田原攻めに従軍し、三成と岩城氏との音信に関与、11月には奥州の岩城領に派遣され、検地を監督した。また、朝鮮出兵に際しても三成に従い、文禄2年正月には漢城から名護屋への使者として派遣されて... ...続きを見る

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2018/09/12 10:42
三成の実像2390「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」80「総論」80 使僧の活用3 寺内織部3
 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」の「豊臣政権の三成」の中で、「使僧の活用」と題して、その実態が考察されていますが、天正17年に三成が芦名氏と音信を行う中で、交渉を担当した寺内織部という人物についての履歴が述べられていますが、その続きです。  最初は教如上人側の人物として動いていた寺内ですが、その後、三成との関係が深まり、それについて次のように記されています。  「天正14年になると、織部は上杉家と三成を繋ぐ回路の一つとして行動している... ...続きを見る

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2018/09/11 10:49
三成の実像2389「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」79「総論」79 使僧の活用2 寺内織部2 
 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」の「豊臣政権の三成」の中で、「使僧の活用」と題して、その実態が考察されていますが、天正17年に三成が芦名氏と音信を行う中で、交渉を担当した寺田織部という人物についての履歴が述べられていますが、その続きです。  天正8年「6月に教如が北陸の門徒を勢力下におくために越中・加賀へ遣わしたのが寺内織部と井上善五郎であった。両者御堂で御文を誦むなどの教化活動にあたることや、上杉景勝家臣の河田長親と結ぶことが求められ... ...続きを見る

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2018/09/10 10:55
三成の実像2388「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」78「総論」78 使僧の活用1 寺内織部1
 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」の「おわり」に、江戸時代以降現代に至る三成の語られ方について触れられていますが、その続きです。  江戸時代には、「三成との関係を禁忌とする考え方が常に支配的だったわけでない」例として、昨日付のブログでも触れた真田家に残る三成書状に関する原田和彦氏の見解の他、三成が領内に出した村掟についても、次のような指摘がされています。  「近江国内に出された石田三成条々についても、彦根市域においては伝存しなかったもの... ...続きを見る

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2018/09/09 10:27
三成の実像2387「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」77「総論」77 三成書状の残存状況
 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」の「おわり」に、江戸時代以降現代までの三成の語られ方について触れられていますが、その続きです。  「近江国内では、三成とゆかりのある史跡が様々な伝承と共に語り継がれた。昭和16年(1941)には出生地の石田において石田三成公事績顕彰会が結成され、碑文の作成などの顕彰活動が行われ、現在まで続いている。近年では、メディアやゲームなどの影響もあり、三成自筆書状の前で涙する女性が現れるまでの人気を得ているという」... ...続きを見る

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2018/09/08 10:42
三成の実像2386「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」76「総論」76 明治期以降の捉え方1
 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」の「おわり」に、江戸時代以降の三成の語られ方について触れられていますが、その続きです。  「明治期になると実証主義の台頭のもとで俗説が退けられて三成の人物像は再評価された」と記されています。ようやく三成が正当に評価される時代が来たわけですが、江戸時代に形成された悪い三成像を改めるのは容易ではなく、いまだに陰謀家、冷酷な人望がない人物として捉えられてる小説やドラマが少なくありません。  谷氏の同書には、「... ...続きを見る

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2018/09/07 10:33
三成の実像2385「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」75「総論」75 江戸時代の描かれ方3
 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」の「おわり」に、江戸時代以降の三成の語られ方について触れられていますが、それに関して中野等氏の次のような見解が取り上げられています。  すなわち、「江戸前期には徳川光圀など一部では三成を忠臣とする評価もあったが、軍記類を中心に奸臣として断罪され、中期には立身しつつ転落した人物として描かれるに留まり、後期に入ると、三成への好意的評価も見られるようになる」と。  徳川光圀の評価というのは、「桃源遺事」に記さ... ...続きを見る

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2018/09/06 10:41
三成の実像2384「シリーズ・石田三成」74「総論」74 江戸時代の語られ方2 おあむ物語
 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」の「おわり」に、江戸時代以降の三成の語られ方について触れられていますが、その続きです。  「18世紀初頭の成立とされる『おあむ物語』は、三成家臣の山田去暦の娘が大垣城籠城中の出来事を回想したという内容を持つ。それが事実であるかどうかは不明であるが、他にも正澄右筆の清水少斎のように、佐和山落城時に生け捕りとなって田中吉政に仕えた者もおり、戦いの悲惨さを伝えるための体験談が三成の敗北という具体像で肉付けされ、... ...続きを見る

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2018/09/05 10:31
三成の実像2383 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」73 「総論」73 江戸時代の語られ方1
 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」の「おわり」に、江戸時代以降の三成の語られ方について触れられています。  「寛文3年(1663)の序をもつ写本の『慶長軍記』では、三成は悪人でありながら、『将』として評価されているという。一方、元禄11年(1698)に刊本が出版された『石田軍記』は関ヶ原軍記の一種であり、後には絶版書となった。この書物には三成を悪人として、家康の徳を称える表現が多く見られるが、作者の真意は当代政治批判にあったとされる。17... ...続きを見る

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2018/09/04 10:08
三成の実像2382 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」72 「総論」72 捕縛場所・佐和山落城
  谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、関ヶ原の戦いの後、三成が捕縛された場所について、「近江古橋村が有力視されている」との太田浩司氏の見解が取り上げられています。  この点について、太田氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)の中で、捕縛場所について諸書にさまざまに記されていることが述べられています。オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「近江・古橋の章」で、古橋に伝わる三成関... ...続きを見る

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2018/09/03 10:34
三成の実像23810「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」71「総論」71 関ヶ原開戦4
  谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、8月8日に三成が佐和山から大垣城に入ったことについて、「大垣は以前の所領であった神戸にも近く、馴染みの深い地であった」という中野等氏の見解が紹介されています。  このことについて、中野氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、「三成の大垣入城には、故地に拠ることで、戦況を優位に進めようとする戦略があったのだろう」と指摘されています。  谷氏の同書には、大垣城の三成... ...続きを見る

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2018/09/02 01:58
三成の実像2380「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」70「総論」70 関ヶ原開戦3
  谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、「白峰氏は慶長5年8月に三成が正式に政権復帰を果たしたとするが、中野氏は若干早く、7月末段階で奉行に復帰していたと推測している」と記されています。  白峰氏の見解については、「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』)の中で、8月1日付で三成も含めた二大老・四奉行連署状が初めて出されている点が証左として挙げられています。  中野氏の見... ...続きを見る

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2018/09/01 10:46

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関ヶ原の残党、石田世一の文学館 2018年9月のブログ記事/BIGLOBEウェブリブログ
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