関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2419 番組「にっぽん!歴史鑑定“島津退き口” 」4 島津隊の布陣場所は従来通り

<<   作成日時 : 2018/10/10 10:35   >>

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 BSの番組「にっぽん!歴史鑑定『関ヶ原の戦い〜運命を変えた“島津退き口”』」の中で、島津隊が退却したルートについて次のように説明されていました。
 家康方軍勢に取り囲まれて絶対絶命の窮地にあった、伊吹山を背にした島津隊が退却するルートは四つあったが、東海道は国許の薩摩へ行くルートとは反対方なのでまず除外されたこと、残るは北国街道から北へ逃れるか、中山道から西に逃れるか、伊勢街道から南に逃れるかだったが、義弘は伊勢街道を逃れることを選んだこと、しかし、伊勢街道は家康直臣の軍勢が立ちふさがるもっとも危険なルートだったこと。
 伊勢街道を選んだ理由について、番組の中では、桐野作人氏は次のように説明されていました。
 伊勢街道は意外にも敵兵の数がもっとも少なく、冷静な合理的な判断だったと。この時、中山道には裏切った小早川秀秋隊が一万五千の軍勢、北国街道には黒田隊・細川隊など二万の軍勢がいたのに対して、伊勢街道にいた家康直臣の軍勢は一万にも満たなかったということ。もっとも、少数とは云え、家康の直臣は精鋭部隊で、そこを突破するのは並大抵のことではなく、そこから壮絶な「島津 退き口と云われる退却戦が始まったと番組では説明されていました。
 番組では、島津隊の布陣場所は従来通り笹尾山の近くの小池村という捉え方でしたが、白峰氏の新見解によれば、島津隊の布陣したのは山中だったというわけですから、番組の説明とは大きく異なってきます。
 このことについて、高橋陽介氏の「一次史料に見る関ヶ原の戦い」の中で、次のように指摘されています。
 すなわち、「戦闘があった場所、つまり撤退を開始した場所が山中からですので、家康本陣が仮に現在の関ヶ原町役場のあたりとしたならば、それは撤退する方向とは反対方向になります。島津義弘は山中から牧田へ撤退しました。このように見ていくと島津軍の撤退は『中央突破』とは言えません」と。
 白峰氏の「関ヶ原の戦いについての高橋陽介氏の新説を検証するー高橋陽介氏の著書『一次史料にみる関ヶ原の戦い』を拝読してー」の中で、「この指摘も従来の通説の矛盾を衝くものであり卓見と言えよう」と評価されています。
 また白峰氏の「通説打破!関ヶ原合戦の真実」(『歴史群像』2017年10月号所載)の中でも、この高橋氏の見解が紹介され、島津隊の退却について次のように番組の内容とは異なる見解が述べられています。
 「島津義弘は大垣城への退却を決意」、「義弘主従はからくも突破に成功したが、南宮山の南に差し掛かったところで、大垣城本丸に火の手が上がっているのを目撃し、残った家臣と共に、そのまま伊勢街道から撤退していった」と。

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