関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2420 番組「にっぽん!歴史鑑定“島津退き口” 」5 敵の大軍にのみこまれるように戦う

<<   作成日時 : 2018/10/11 11:36   >>

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 BSの番組「にっぽん!歴史鑑定『関ヶ原の戦い〜運命を変えた“島津退き口”』」の中で、島津隊の退却の時に使った戦法について、戦国史研究家の小和田泰経氏は当時の史料には書かれていないものの、江戸時代後期に書かれた島津側の兵法書に、「穿(うがち)抜け」という戦法が使われたと記されていると説明されていました。キリで穴を開けるように島津隊が一丸となって、敵の一点を集中攻撃し、突破するという戦法で、かなりの至近距離での戦いだったと説明されていました。
 島津隊の戦法については、桐野作人氏の「関ヶ原 島津退き口」(学研新書)の中で、まず武士たちが「繰抜(くりぬき)」(交互に)鉄炮を放ち、それが一段落した後、郎等に持たせた武具を持って敵に突入するというものだと記されています。もっとも、島津豊久が周到な事前準備である「前積」をしなかったために、鉄炮を二放ちしかできず、活用できなかったと江戸時代の軍学者の徳田邕興(ようこう)が批判していることも記されています。
 番組では、まず島津隊は、たちはだかった福島隊を突破したが、それは死にもの狂いの敵と戦ってはいけないという「孫氏」の戦法にのっとって福島隊は道を開けたのではないかと、やはり小和田氏が解説されていました。
 番組では、島津隊はさらに家康方軍勢の中を突き進み、その時の激闘の様子を兵士は次のように書状に書き記していたと紹介していました。
 「数少ない島津勢は、正面や左右から押し寄せる敵の大軍の中にのみこまれるように、もがきながら戦った」と。
 番組では、この出典は明らかにされていませんでしたが、桐野氏の同書では、「黒木左近兵衛申分」だということが記されています。
 島津隊の進んだ方向ですが、番組では、南の伊勢街道の方に進んだと説明されていましたが、桐野氏の同書では、最初は東の方に進んだということが記され、その理由として、「義弘は当初大垣入城を考えていたようである」と指摘されています。「しかし、南宮山の麓あたりで大垣城の本丸に火の手が上がるのが見えて断念したらしい」とも記されていますが、この典拠は「神戸久五郎覚書」であることが示されています。義弘が大垣城入城を断念したことについては、昨日付の拙ブログで触れたように、白峰氏の「通説打破!関ヶ原合戦の真実」でも記されています。
 もっとも、番組や桐野氏の同書では、島津隊が布陣したのは、三成が本陣を置いたとされる笹尾山の近くの小関村という従来の捉え方ですから、三成隊や島津隊が本陣をおいたのは、笹尾山からずっと南の山中であったとするのが白峰旬氏や高橋陽介氏の見解ですから、それに従えば、最初の退却ルートは大きく異なり、白峰氏や高橋氏の説では、家康方の攻撃を避けながら山中から伊勢街道の方に出たのは自然の流れだったように思えます。

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