関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2423 番組「にっぽん!歴史鑑定“島津退き口” 」8 島津豊久の死んだ場所

<<   作成日時 : 2018/10/14 10:26   >>

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 BSの番組「にっぽん!歴史鑑定『関ヶ原の戦い〜運命を変えた“島津退き口”』」の中で、島津隊の伊勢街道を南下して退却する時に、前述したように、家康の四天王の井伊直政や本多忠勝に追撃され、直政は銃弾を右肩に受け落馬したと説明されていました。
 これも前述したように、直政が負傷したのは島津軍の陣であったとの見解が、桐野作人氏の「関ヶ原 島津退き口」(学研新書)で記されていますが、「退き口に移った義弘主従は組織だった追撃を受けていない可能性が高いことを示している」ことも指摘されています。
 義弘の甥が伊勢街道沿いの烏頭坂で討死したとされ、豊久の供養塔が建っており、私も何度かお参りしたことがありますが、もっと手前で討死したかもしれないということが指摘されています。
 すなわち、「山田有栄と赤崎丹後は関ヶ原宿口あたりで、豊久の乗っていた馬を見つけたという説もある。中世から戦国時代の関ヶ原宿の場所はどこなのか不明だが、江戸時代の中山道の関ヶ原宿は関ヶ原盆地のほぼ真ん中にあり、現在の関ヶ原町の中心部にあたる。この地のあたりで豊久が討死したならば、伊勢街道をめざすも、烏頭坂よりだいぶ手前で力尽きたことになる」と。
江戸時代の関ヶ原宿は、現在の関ヶ原駅のすぐ南のあたりにありましたから、戦国時代もそのあたりにあったのかもしれません。義弘の陣が、現在大谷吉継の陣が置かれた場所であったとの高橋陽介氏の見解に従えば、義弘軍は陣から東に進み、関ヶ原宿付近で豊久は討死したという可能性もあることになります。
 番組では、島津軍は駒野坂から南下して鈴鹿峠を抜け、その時に東軍の追撃だけでなく帰った甲冑を狙う地元民の落ち武者狩りも待ち受けていたこと、食料の調達が困難を極め、食料が底をついた時には軍馬を食料にして飢えをしのいだこと、伊賀上野、信楽を経てなんとか大坂にたどりついたのは9月20日だったこと、兵の数は20人余りしかいなかったこと、大坂から舟で薩摩まで逃げ帰ったことなどが述べられていました。
 退却ルートについては、桐野作人氏の見解が番組では採用されていました。通説のルートについては、桐野氏の同書で詳しく論じられ、否定的な見解が示されています。
 桐野氏の同書では、「途中、撤退しようとする長宗我部盛親や長束正家の軍勢と遭遇し」、「どちらが先に撤退するか話し合い、長宗我部勢が大勢なので混雑して時間がかかるから、義弘主従が先に撤退することになった」、「また正家が親切にも道案内のために一騎を付けてくれた」、「翌9月16日早暁、義弘は長束正家が付けてくれた道案内の武者に礼を述べて返した」ことなど、興味深いことが記されています。
 

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