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zoom RSS 三成の実像2426 大阪探訪137 大坂の寺町形成

<<   作成日時 : 2018/10/17 10:52   >>

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義母の三回忌法要が、10月7日に妻の実家の菩提寺である大阪市天王寺区下寺町の金台寺で営まれましたが、生まれて4ヶ月余りの甥も義妹夫妻に伴われてアメリカから参列していました。その時のことはフェイスブックの方で記しています(https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7?ref=brem)。
 昨年11月に金台寺の仏像群が三日間だけ特別公開されましたが、その際のレジュメに、金台寺の寺歴も掲載されていますが、最初は安堂寺町堺筋に建立され、大坂の陣の後、現在の地に移ったと記されています。
  下寺町を整備したのは、大坂の陣の後、城代になった松平忠明ですが、もともと大坂城に寺町をいくつも築いたのは秀吉でした。
 上記のレジュメに、「大坂の寺町」と題する文章が掲載されており、秀吉時代の寺町について次のように記されています。
 「最も早くつくられた寺町は、上町筋の八丁目寺町と、その東側の八丁目中寺町です。平野郷の住民が移住して町をつくったといわれる北平野町・南平野町と、大坂市中との間に位置し、天正年間(1573〜91)につくられました。天満の寺町も、天満にあった本願寺の建立とともに、天正13年(1585)にできたといわれています。
 文禄3年(1595)には、大坂城惣構の築造とともに、小橋寺町、上町筋の八丁目東寺町、生玉中寺町がつくられ、慶長3年(1598)には、大坂城三の丸築造に伴い北船場の西側に寺町ができました」と。
 下寺町は昔は西寺町と云い、上町台地を西に下ったところに位置します。秀吉時代は、上町台地の一番西側に生玉寺町(生玉社の南)、その東側に上町筋中寺町、谷町八丁目寺町、さらにその東側の北平野町・南平野町をはさんで、八丁目寺町、八丁目中寺町、八丁目東寺町、さらにその少し東側に小橋寺町がありました。北船場の西側の寺町の一角に、北に本願寺御坊(津村別院)、南に本願寺御坊(難波別院)がありました。
 船場が出来たのは、大坂城三ノ丸が築造された時ですから、慶長3年のことになります。それまで城内に住んでいた商人たちを立ち退かせ、代替地として船場を与えたわけです。その船場の西側にも寺町ができました。
 図録「大阪歴史博物館常設展示案内」には、大坂城三ノ丸範囲内で採取された地層の写真が掲載されています。一番下が、大坂城が造られはじめた頃の地層、その上が、三の丸造成以降に盛られた地層で、さらにその上に大坂の陣でできた瓦礫層、一番上がその後再建された江戸(徳川)時代の大坂城の地層です。徳川氏は豊臣の大坂城を埋めて痕跡を消し、その上に新たな徳川の大坂城を築いたわけです。
 なお、小橋寺町の北側には、大坂冬の陣で、真田信繁が築いた真田丸がありました。
 

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