関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像2427 布谷陽子氏の『関ヶ原合戦の再検討』」1 現在の関ヶ原合戦研究

<<   作成日時 : 2018/10/18 10:40   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)に、布谷陽子氏の「関ヶ原合戦の再検討ー慶長5年7月17日前後ー」が掲載されています。2005年に発表されたものですから、この十年余りの間に、さらに関ヶ原合戦の再検討は進んでいます。
 布谷氏の同書では、「現在の関ヶ原合戦研究は、大きく分けて二つの方向がある。一方は、関ヶ原合戦における各武将の動向や東西両軍形成に関する、いわば関ヶ原合戦の過程そのものについての研究であり、他方は『幕藩体制』の成立過程から関ヶ原合戦を意義付けようとする研究である」と記されています。
 確かに、二つの方向があったことは間違いないのでしょうが、今や第三の方向が注目されています。関ヶ原合戦そのものを根本的に見直すものであり、具体的には、従来の両軍の布陣図は明治以降に造られたものであり、主戦場は関ヶ原ではなく山中であり、小早川秀秋は最初から裏切っており、戦いは通説よりもずっと早く終わったという白峰旬氏の見解がありますし、高橋陽介氏はそれを踏まえて新たな三成方の布陣場所が推定されています。両氏の見解は、編纂史料や軍記物の記述を廃して、一次史料の検討から戦いの実相に迫ってゆくものであり、白峰氏の見解は、前述したように、谷徹也氏の「総論 石田三成」でも紹介されています。
 家康の上杉攻めに関しては、布谷氏の同書には、次のように記されています。
 「これは家康が西軍挙兵をある程度予想した上での行動であったといわれることが多い。しかし征伐の理由の一つに挙げられた上杉景勝の居城修築を徳川秀忠が認知していた書状も伝わっており、家康の上杉征伐は早くから駆け引きが存在し、征伐理由に関しては疑問が残されている」と。
 家康は、前田氏を屈服させたように、当初は上杉氏も屈服させ、有力大名の個別撃破を考えていたという中井俊一郎氏の見解に私は同意します。それが一番リスクの少ない方法であり、上杉氏の次は毛利氏あたりに狙いをつけていたのではないでしょうか。個別に大名を屈服させてゆくことで、秀頼に代わって天下の実権を握ることを考えていたと思っています。上杉攻めは想定の一部だと家康は考えていたとしても、実際に攻撃に踏み切るのは、直江状に怒ってのことであり、動員をかけながらも、戦いが開始される前に、上杉側から折れてくることを望んでいたかもしれません。なるべく冒険をしないまま、権力を握りたがったのがこの時の家康の思いだったような気がします。
 「上杉景勝の居城修築を徳川秀忠が認知していた書状」については、布谷氏の同書の註に、「譜牒餘録」が出典であるものの、「あまり利用されていないのが現状である」と記されています。この書状については、私もよく知らないので、改めて内容を検討する必要性を感じています。

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