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zoom RSS 石田三成の実像2428 布谷陽子氏「関ヶ原合戦の再検討」2 北政所が家康を支持していた説への疑問

<<   作成日時 : 2018/10/19 10:47   >>

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 布谷陽子氏の「関ヶ原合戦の再検討ー慶長5年7月17日前後ー」(谷徹也氏編『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成』【戎光祥出版】所載)に、秀吉夫人の北政所と関ヶ原合戦に関して、次のように記されています。
 「北政所の動向については家康を支持していたことが通説になりつつあるが、木下俊定など北政所関係者が多数西軍に属していることや三成の三女辰姫が北政所の養女となっていること、さらに家康との関係において象徴とされている高台寺の建立は、江戸幕府が開設された後の慶長10年(1605)であることなどからもわかるように、北政所と家康の関係を関ヶ原合戦に関連付けようとすることは必ずしも適切であるとはいい難く、疑問が残されている」と。
 「家康を支持していたことが通説になりつつある」という部分については、確かに2005年に発表された時点ではそうだったかもしれませんが、すでにそれまでにも白川亨氏や杉山哲也氏によって、北政所は三成の決起を支持していたという見解が示されています。その根拠として、布谷氏の同書で述べられているように、北政所関係者が多数三成方に属していること(北政所の甥八人のうち、一人は出家し、一人が家康方についている他の六人すべて三成方に付いていること、ただし、秀秋は家康方に寝返っていますから、正確には五人ということになります)、辰姫が北政所の養女となって津軽藩に嫁いでいること、高台寺の建立は後年であることなどが挙げられています。
 近年では、跡部信氏によって関ヶ原合戦の際、淀殿と北政所が連携して三成たち豊臣公儀側に立って大津城の開城交渉に当たったことが指摘され、福田千鶴氏もそれに同意されていますから、北政所=家康という従来の説に対して、否定的な見解が増えています。
 そういう意味では、「北政所と家康の関係を関ヶ原合戦に関連付けようとすることは必ずしも適切であるとはいい難く、疑問が残されている」という布谷氏のまとめ方は正しいと云えます。
 布谷氏の同書では、秀秋が陣を張った松尾山に関して、いろいろな説が紹介され、考察が加えられてています。
 すなわち、「この場所は織田信長の時代から塁砦があった場所である。西軍の大谷吉継や伊藤盛正らは決戦の10日前から関ヶ原の地に入っており、盛正はこの松尾山に陣を構えていたという説もある。その場合この松尾山を無理やり秀秋が占有したことになる訳であるが、西軍全体が着陣した時点で本来はここに誰が配置される予定であったのか、また西軍は長期戦を考えていたのかなど、この遺構に関する研究が西軍戦術の解明に大きく関わってくると思われるのである」と。
 吉継や盛正によって、前もって土塁などが構築され、毛利輝元に松尾山に入ってもらおうということが通説のようになっており、このことはオンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)でも記しましたが、本当にそうだったのか、一次史料の検討によって改めて検討する必要があります。

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