関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像2430 布谷陽子氏「関ヶ原合戦の再検討」4 事前準備・「内府ちかひの条々」をめぐって

<<   作成日時 : 2018/10/21 11:22   >>

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 布谷陽子氏の「関ヶ原合戦の再検討ー慶長5年7月17日前後ー」(谷徹也氏編『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成』【戎光祥出版】所載)の中で、三成の挙兵が事前に練られており、三成が裏で三奉行を指揮していたという小和田哲男氏の見解が紹介されています。
 すなわち、「7月11日以降、三成方の動きがにわかに活発となったわけであるが、手紙一つで前田玄以・増田長盛・長束正家の三人がすぐ動いたところを見ると、三成とこの三奉行との間には、事前に何らかの相談があったと考えることもできる」と。 
 確かに、三成が通説通り7月11日に挙兵したとすると、その6日後の7月17日に早くも家康弾劾状である「内府ちかひの条々」が三奉行の名で出され、毛利輝元・宇喜多秀家も書状を出しているわけですから、事前準備があったと考えるのが自然です。特に「内府ちかひの条々」は一朝一夕に作成できるものでなく、確かに練られているという印象を持ちます。「内府ちかひの条々」に当時、奉行職を解任されていた三成の名はありませんが、原案を作成したのは三成だと私は考えています。
 桐野作人氏の見解によれば、「内府ちかひの条々」には、家康に敬語が使われているのに対して、「内府ちかひの条々」と同じような内容が記されている、石田三成・増田長盛連署條目には、「家康」と呼び捨てにし、「逆心」という言葉を使うなど、家康に厳しいものになっており、そこに三成の気持ちが表れていると指摘されています。「内府ちかひの条々」では三奉行が家康を気遣っている表現になっているというわけです。
 また布谷氏の同書には、三成がすべてを計画し挙兵が進行したとする笠谷和比古氏の見解も紹介されています。
 すなわち、「三成と吉継は相謀り、大坂城に残る前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行を挙兵計画に与同させ、さらに安国寺恵瓊を通じて広島にある毛利輝元に出陣をもとめ、他方では大坂城の諸門、大坂の諸口を固めて在坂の諸大名をその支配下においた」と。
 しかし、布谷氏の同書では、三成一人が企てたということに対して否定的見解が示されています。その根拠の一つとして、6月20日付で三成が直江兼続に宛てた書状の内容が挙げられています。
 すなわち、「『輝元・秀家其他、無二ノ味方ニ候』との文言がある。つまり、すでにこの時点で輝元と秀家が西軍に加担していた、もしくは加担する公算が高かった、ということである」と。
 この書状については、かつて偽文書説があったことが、桐野作人氏の「兼続と三成ー立場の違いを超えた共闘」(『新・歴史群像シリーズ 直江兼続』【学研】所載)に記されていますが、これについては後述します。
 
 

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