関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2431 布谷陽子氏「関ヶ原合戦の再検討」5 6月20日付兼続宛書状・7月15日付義弘書状

<<   作成日時 : 2018/10/22 10:47   >>

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 布谷陽子氏の「関ヶ原合戦の再検討ー慶長5年7月17日前後ー」(谷徹也氏編『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成』【戎光祥出版】所載)の中で、前述したように、三成一人が企てたということに対して否定的見解が示され、その根拠の一つとして、6月20日付で三成が直江兼続に宛てた書状の内容が取り上げられています。
 この書状については、かつて偽文書説があったことが、桐野作人氏の「兼続と三成ー立場の違いを超えた共闘」(『新・歴史群像シリーズ 直江兼続』【学研】所載)に記されていますが、偽文書ではないことという根拠が示されています。
 すなわち、この書状に見られる「天の与えと祝着せしめ候」という文言が8月5日付真田昌幸・信幸・信繁宛て三成書状の「天のあたふる儀候間」と似たようなような表現が見られ、三成の常套句だったことが指摘されていると。
 これは笠谷和比古氏の見解であることが、桐野氏の同書に記されています。
 この兼続宛て三成書状が本物であるとすると、桐野氏の同書で指摘されているように、「兼続がいわゆる『直江状』を発給した前後に、上杉方は徹底抗戦の覚悟を固め、三成との連携を謀ったのは間違いない」ということになります。
 桐野氏の同書では、この書状以前に兼続が三成を送ったと推定されていますから、こういうことからみても、兼続と三成はかねてから気脈を通じていたことがわかります。家康と挟撃する作戦をかねてから考えていたかは不明ですが、万一の場合は協力するという約束はあったのかもしれません。
 さて、三成一人が反家康の挙兵を企てていたわけではないという根拠として、布谷氏の同書では、7月15日付で島津義弘が上杉景勝に宛てた書状が挙げられています。その内容は、「7月15日の時点で輝元や秀家、『大坂御老衆』すなわち玄以・長盛・正家の三奉行、小西行長、吉継、三成らが談合していたことを伝えている」ものだと記されています。
 こういうことから、「首謀者も三成一人というよりは、輝元・秀家のニ大老と玄以・長盛・三成・正家の四奉行の連合であり、より組織的なものであった可能性を見つめ直すものである」と結論付けられています。
 こういう布谷氏の見解は、「内府ちかひの条々」を出して以降、石田・毛利連合政権が成立したという白峰氏の見解に通じるものです。布谷氏の同書には、江戸時代の軍記物には、三成一人が首謀者であったという描き方がされていることも記されていますが、江戸時代は「石田の乱」と呼ばれたことでもわかるように、三成が謀反を起こしたとされていました。
 
 

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