関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像2432 布谷陽子氏「関ヶ原合戦の再検討」6 秀吉の死の10日後の毛利輝元起請文前書案

<<   作成日時 : 2018/10/23 00:28   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 布谷陽子氏の「関ヶ原合戦の再検討ー慶長5年7月17日前後ー」(谷徹也氏編『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成』【戎光祥出版】所載)の中で、毛利輝元と家康の関係について論じられています。
 まず、秀吉の死から10日後の慶長3年8月28日に書かれた「毛利輝元起請文前書案」が取り上げられおり、次のように解説されています。
 「太閤秀吉の死後も豊臣秀頼を守り立て、異心なく同調することを輝元と四奉行が誓おうとした姿が見て取れる。特に『自然世上為何動乱之儀候』という表現は、すでに豊臣政権内に不穏な動きがあったことを暗にほのめかしているかのようである。また、この起請文最大の特徴は、一度完成した文言を書き改めた形跡が残されていることにある。秀頼を守り立て、秀吉の遺命を遵守するという通常の文言をあえて、輝元と増田長盛・石田三成・前田玄以・長束正家の四奉行が互いに心を合わせ秀頼に奉公すると、改めて名前を掲げているのである。なお、この文書により五奉行のうち浅野長政がすでに一線を引いていたことも明らかである」と。
 この起請文については、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、原案と訂正後の文面が合わせて取り上げられ、比較されていますが、次のように解説されています。
 「原案では、仮定される『世上之動乱』が起請の前提であるが、訂正されたものでは『動乱』のような具体的なものではなく『心ちがい』、それも内心における意見の食い違いが前提となっている。『五人之奉行』が秀頼に異心を抱くのではなく、増田長盛(増石)・石田三成(石治)らと考えが齟齬するだけで、秀頼に対する不忠と見なされている。輝元は『右四人衆』が共同して不忠を糺し、秀頼への奉公を尽くすことを誓約している」
 「この起請文は、大老のうちに増田長盛・石田三成らと意見を異にする者があれば、毛利輝元が三成らと協力してそれを排除することを約したものとなっている。さらに踏み込んで解釈すると、増田長盛・石田三成らと意見を異にする可能性を有する存在とは徳川家康であろう」と。
 起請文の『五人之奉行』とは、いわゆる「五大老」を指していることも、中野氏の同書で記されています。家康と五奉行との間に、すでに不和であったことを示すものとして、中野氏の同書では、9月2日付の輝元の重臣内藤周竹書状が挙げられ、その中に次のような文言があります。
 「五人の奉行らと家康との関係が不和であるとのことだが、わが毛利家が巧にその仲介を行なうことが安国寺(恵瓊)の御使によって伝えられた」と。
 もっとも、中野氏は「毛利家としては、むしろ中立的な立場に拠りつつ両者を仲介し、和談をすすめることを望んでいたようである」と指摘されています。両者とはむろん、家康と五奉行のことです。
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像2432 布谷陽子氏「関ヶ原合戦の再検討」6 秀吉の死の10日後の毛利輝元起請文前書案 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる