関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 受贈御礼 白峰旬氏「豊臣七将襲撃事件は単なる『訴訟騒動』」1 三成の実像2434

<<   作成日時 : 2018/10/25 10:44   >>

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 白峰旬氏から最近のご論考を多数ご恵贈賜りました。この場を借りてお礼申し上げます。
 そのうちの一つである「豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は『武装襲撃事件』ではなく単なる『訴訟騒動」であるーフィクションとしての豊臣七将襲撃ー」(別府大学史学研究会『史学論叢』第48号所載)をまず紹介させていただきます。
 題からして衝撃的です。七将による石田三成襲撃事件は実際あったものと思っていましたし、大坂から伏見に逃げた三成が、伏見城の治部少輔丸にたてこもって、尼崎に陣を張った毛利輝元らと結んで反撃しようとしたものの、大坂城を家康方の片桐且元らに押さえられたために、頓挫し、三成は家康の仲裁を受けその責任を取らされ奉行職を解任され、佐和山に隠居したと。これは光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)の中に記されていることであり、その典拠として毛利元康宛毛利輝元書状などが挙げられています。
 司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」では、三成は家康の屋敷に逃げ込んで救いを求めたという描き方がされていましたし、今でもそういうふうにドラマなどで描かれることがよくありますが、この点に関しては、三成が逃げ込んだのは家康の屋敷ではなく、伏見城内にある治部少輔丸の自分の屋敷だったということが笠谷和比古氏によって指摘されています。
 さて、白峰氏の同書では、まず水野伍貴氏の先行研究「前田利家の死と石田三成襲撃事件」の記述が紹介されています。
 すなわち、この事件は「七将が家康に三成の制裁(切腹)を訴えたもの」であり、「従って、この事件を『三成襲撃事件』と呼ぶのは不適切と思われる」と。
 さらに白峰氏の同書には、「水野論文では、『三河物語』の記載の検討から『七将の行動は三成に政治的責任を負わせて切腹を迫ったとするもので、暗殺・襲撃とは性格が異なるものとなっている。』とも指摘されているほか、『義演准后日記』閏三月十月条で『石田治部少輔江州サヲ山ノ城へ隠居、大名十人トヤラン申合訴訟云々、内府異見云云』と記されていることも指摘されている」と記されています。
 この問題に関して、白峰氏の同書では、次の関係史料が挙げられ、その史料を精査・検討されています。
 「言経卿記」「義演准后日記」「舜旧記」「北野社家日記」「三藐院記」「お湯殿の上の日記」「多聞院日記」。
 これらの史料の記述内容が白峰氏によって現代語訳され、それを時系列にまとめて表にされています。
 
 

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