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zoom RSS 三成の実像2435 白峰旬氏「豊臣七将襲撃事件は単なる『訴訟騒動』」2 三成は伏見に逃げたのではない

<<   作成日時 : 2018/10/26 01:25   >>

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 白峰旬氏の「豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は『武装襲撃事件』ではなく単なる『訴訟騒動」であるーフィクションとしての豊臣七将襲撃ー」(別府大学史学研究会『史学論叢』第48号所載)の中で、「言経卿記」「義演准后日記」「舜旧記」「北野社家日記」「三藐院記」「お湯殿の上の日記」「多聞院日記」を精査・検討されていますが、次の点がまず指摘されています。
 「@慶長4年3月末から閏3月初旬に大坂・伏見ですでに雑説があった。A石田三成が大坂から伏見に移ったのは閏3月4日であり、その後、伏見で諸大名との間で『申合』、『訴訟』があった、Bよって、三成は大坂で諸大名とトラブルがあったため伏見へ移ったわけではなかった(三成は敵対する諸大名を避けるために大坂から伏見へ逃げて来たわけではない)、C表1の関係史料には、武力による三成への『襲撃』を示す文言はどこにもない、D表1の関係史料には、三成が大坂で武力による襲撃を受けたことは、どこにも書かれていない、E三成が諸大名との間にトラブルがあった場所は伏見であり大坂ではない」と。
 @については、白峰氏が作成された表1には、「言経卿記」3月27日条に「この日より大坂で雑説がある」とあり、「北野社家日記」3月29日条に「今夜、伏見では一段と騒ぎがあった」と記されており、閏3月朔日にも「伏見では物騒とのことである」とあります。
 前田利家が亡くなるのは、閏3月3日ですから、その前から騒然とした雰囲気があったことがわかります。その次の日に三成は大坂から伏見に移るわけですが、従来は七将の襲撃を受けて伏見に逃げたというふうに捉えられています。三成が逃げるにあたっては、盟友の佐竹義宣らの助けがあったというのが通説になっています。
 上記の表1によれば、「言経卿記」閏3月4日条に「石田三成が大坂から伏見へ移った」という記述があることが掲載されています。確かにここには、三成が伏見に逃げたとは書かれていませんし、その直前の公家の日記にも、三成が襲撃を受けたとの記述はどこにもありません。
 また「北野社家日記」閏3月7日条には、「大坂、伏見では以ての外の騒ぎがあった。福島正則、小西行長など、そのほか大名衆が申し合わせて、石田三成に腹を切らせようとした、という風聞があった」という記述があり、注目すべき内容です。
 この記述の白峰氏による【註】には、「小西行長は石田三成に近い立場にいたため、小西行長が三成に腹を切らせようとしたとは考え難いので、他の大名と取り違えている可能性が高い」と指摘されています。
 あくまで風聞なので、その内容はしっかり吟味する必要がありますが、三成と大名衆の間に騒動があったのは確かなものの、これらの史料を見る限り、襲撃されたとは考えられません。 

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