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zoom RSS 三成の実像2437 白峰旬氏「豊臣七将襲撃事件は単なる『訴訟騒動』」4 別々の騒動・異なる人数

<<   作成日時 : 2018/10/28 10:05   >>

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 白峰旬氏の「豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は『武装襲撃事件』ではなく単なる『訴訟騒動」であるーフィクションとしての豊臣七将襲撃ー」(別府大学史学研究会『史学論叢』第48号所載)の中で、「言経卿記」「義演准后日記」「舜旧記」「北野社家日記」「三藐院記」「お湯殿の上の日記」「多聞院日記」を精査・検討されていますが、H点目として次のように指摘されています(@〜G点目については一昨日・昨日付の拙ブログ記事で触れました)。
 すなわち、「北野社家日記」閏3月7日条の「大坂、伏見では以ての外の騒ぎがあった。福島正則、小西行長など、そのほか大名衆が申し合わせて、石田三成に腹を切らせようとした、という風聞があった」という記述内容及び「言経卿記」閏3月8日条の「伏見での雑説は、北政所の仲裁により『無事』になった」という記述内容と、それに対して「舜旧記」閏3月9日条の「石田三成と7名の大名衆が伏見にて『申合』があった。しかし、家康から『中』に『此事』があった。(この結果)三成は江州佐和山城へ隠居した」という記述内容及び「義演准后日記」閏3月10日条の「石田三成は江州佐和山城へ隠居した。大名10人ということであるが、『申合』をして『訴訟』があった。(それに対して)家康が『異見』をした」という記述内容とは、「別々の出来事(騒動)であり(ただし、場所が伏見である点は共通している)」、後者の「舜旧記」と「義演准后日記」の記述内容は「三成と敵対した大名の人数は異なり、史料に記載された日付も異なるが、同じ出来事を指していると考えられる」と。
 この別々の出来事(騒動)が具体的にどのようものであったかは今後の検討課題だと思われます。ただし、最初の出来事は三成に切腹を迫るものであったと記載されていますので、風聞であったとはいえ、それに類するようなものであったと推定されます。北政所の仲裁で一旦事態が収まったものが、また噴き出したのかもしれませんが、また別の状況が生まれたとも考えられます。
 「三成と敵対した大名の人数は異な」るという点に関しては、今まで七将が誰であるかという点に関して、いろいろな説があることと関連するような気がします。実際は七名にとどまらず、十名ぐらいの者が三成と敵対したのかもしれません。このことについても、白峰氏は考察されていますが、改めて述べます。 
 I点目の指摘は、「多聞院日記」閏3月9日条の「伏見では、石田三成・増田長盛・前田玄以が『一所』にとじこもったが、扱い(=仲裁)があったということである」という記述内容は、上記の「舜旧記」と「義演准后日記」に記載されている「騒動の過程でおこなったものと考えられる」が、「『扱い=仲裁』はだれがおこなったのかは書かれておらず、家康がおこなったとも書かれていない」という点です。
 もっとも、家康が仲裁をしたのではないにしても、騒動の解決に関与したということは、「義演准后日記」の「家康が『異見』をした」という記述からわかります。

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