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zoom RSS 三成の実像2438 白峰旬氏「豊臣七将襲撃事件は単なる『訴訟騒動』」5 七将ではなく十将

<<   作成日時 : 2018/10/29 10:56   >>

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 白峰旬氏の「豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は『武装襲撃事件』ではなく単なる『訴訟騒動」であるーフィクションとしての豊臣七将襲撃ー」(別府大学史学研究会『史学論叢』第48号所載)の中で、「言経卿記」「義演准后日記」「舜旧記」「北野社家日記」「三藐院記」「お湯殿の上の日記」「多聞院日記」を精査・検討されていますが、これらの史料を見る限り、白峰氏の見解通り、三成を襲撃したということは書かれていません。
 このことについて、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、「『襲撃』とはいえ、実態としては、反家康で固まった諸将が、家康に対して、三成の切腹を要求したともいわれる」と記されています。
 白峰氏の見解に近いものであることがわかりますが、中野氏の指摘には、白峰氏が注目されている「北野社家日記」閏3月7日条に「大名衆が申し合わせて、石田三成に腹を切らせようとした」という記述が参考にされているのではないかと思われます。
 白峰氏の指摘するI点目は、「多聞院日記」閏3月9日条の「伏見では、石田三成・増田長盛・前田玄以が『一所』にとじこもったが、扱い(=仲裁)があったということである」との記述内容は、「舜旧記」閏3月9日条の「石田三成と7人の大名衆が伏見にて『訴訟』があった」という記述や、「義演准后日記」閏3月10日条の「石田三成は江州佐和山城へ隠居した。大名10人ということであるが『申合』をして『訴訟』があった」という記述に見られる「騒動の過程でおこなったものと考えられる」という点です。
 襲撃事件を起こしたのは七将であったとする通説は、「舜旧記」の「7人の大名衆」という記述に基づいているのではないかと思いますが、この三成を襲撃したとされる七将のメンバーがはっきり確定されていないことも、襲撃が本当にあったのか怪しいと私は思ってしまう点です。
 笠谷和比古氏・黒田慶一氏の「秀吉の野望と誤算」(文英堂)には、「重鎮前田利家の死を契機として、加藤清正・浅野幸長・蜂須賀家政・福島正則・藤堂高虎・黒田長政・細川忠興の有力七将が相謀って、石田三成を武力討伐しようと大坂で決起したのである」と。
 ここには、七将が大坂で三成襲撃を企てたという通説通りの記述がされています。
 一方、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)には、「加藤清正・黒田長政・細川忠興・脇坂安治・加藤嘉明・福島正則・浅野幸長の七将による、石田三成襲撃事件が起きるのである」と記されています。
 白峰氏の同書の【註】では、この点に関して、「従来の研究は、メンバーを特定できないまま員数を無批判に固定して捉え、『七将』を生み出したのであろう。だが、基本史料(古文書・古記録)を丹念に調べてみると、三成と対立していた武将は七人にとどまらなかったことが明らかになる」という宮本義己氏の見解(「豊臣政権崩壊の謎」)が紹介されています。

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