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zoom RSS 三成の実像2440 白峰旬氏「豊臣七将襲撃事件は単なる『訴訟騒動』」7諸将が家康に訴えたとの記載なし

<<   作成日時 : 2018/10/31 18:02   >>

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 白峰旬氏の「豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は『武装襲撃事件』ではなく単なる『訴訟騒動」であるーフィクションとしての豊臣七将襲撃ー」(別府大学史学つうせつは研究会『史学論叢』第48号所載)の中で、「言経卿記」「義演准后日記」「舜旧記」「北野社家日記」「三藐院記」「お湯殿の上の日記」「多聞院日記」を精査・検討されていますが、L点目の指摘として、「三成と諸大名との間のトラブルにおいて、三成と敵対した諸大名が家康に対して直接訴えたとは表1の関係史料には記されていない」ことが挙げられています。ただし、第二段階の騒動では、「結果的に家康が騒動の解決に関与しているが、家康に訴えたとは書かれていない」とも記されています。
 通説では、三成に敵対した諸将は家康に訴えたということになっていることも白峰氏の同書には記されていますが、上記の史料ではそれは確認できないわけです。司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)では、家康の屋敷に逃れた三成を引き渡せと、加藤清正が乗り込んできた時、家康は諸将を集めた上で、三成は今は引き渡せないと断ったものの、三成が乱などを起こせば、自分からみなを誘って討つと言って納得させ、三成には引退を迫るという描き方がされていましたが、さまざまなバリエーションがあるものの、いわゆる石田三成襲撃事件に関する通説はこれと似たようなものです。もっとも、三成が家康の屋敷に逃れたのは事実ではなく、伏見城内の治部少輔丸に籠ったことが笠谷和比古氏によって指摘されていますが、諸将が三成を襲撃しようとしたことと、諸将が家康に訴えたということはそのまま信じられているものの、そうではなく、これらのことはフィクションであったことが白峰氏が挙げておられる上記の一次史料からわかるわけです。
 フィクションという点では、白峰氏の同書では、以上の@からL点目の指摘のまとめとして、次のように記されています。
 「前田利家死去の翌日である慶長4年閏3月4日に豊臣七将が三成を大坂で襲撃しようとしたが、三成はこの情報を知って大坂から伏見に逃げて、伏見城の自邸に籠った、とされてきたが、これは一次史料による根拠のない虚構(フィクション)であることがわかる」と。
 光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)の中では、七将襲撃事件があったことを前提にした上で、毛利元康宛毛利輝元書状などに基づいて、その後の展開が論じられています。すなわち、三成が毛利輝元と結んで軍事行動を起こそうとしましたが、それは三成襲撃を起こした七将らへの対抗手段だという捉え方でした。しかし、襲撃ではなく、三成を切腹させようとする訴訟騒動であったとするならば、三成らの動きは、武威を示して巻き返しをはかったものかもしれず、戦闘までは想定していなかったとも考えられます。このあたりのことは、改めて検討する必要があるように感じました。

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