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zoom RSS 三成の実像2413 「英雄たちの選択 大谷吉継」8 吉継の事績・敦賀の重要性

<<   作成日時 : 2018/10/04 10:40   >>

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 番組「英雄たちの選択 大谷吉継 関ヶ原もう一つのシナリオ」では、吉継の居城であった敦賀城の発掘調査が2010年に行われ、小学校の一部から城の建物と一部と見られる礎石が発見されたことで、それまで幻の城と呼ばれた城の実像が徐々に明らかになってきたことが述べられていました。
 この発掘調査に関わってきた外岡慎一郎氏は、吉継は敦賀を港を中心とした経済・流通拠点としてこれから豊臣秀吉がはじめようとする政策に活用できるようにし、また秀吉も信頼を置ける家臣を敦賀に置いたと考えられると説明されていました。
 吉継のことが世間に知られるようになったのは、賤ケ岳の戦いで「先懸(さきがけ)衆」として戦功をあげたことが番組で紹介されていましたが、この出典は「一柳家記」であり、この書では、三成も「先懸衆」として活躍したと記されており、他の史料では一切そういう記述はないので、現段階ではこの記述の信憑性は疑われています。
 番組では、この後、吉継は三成とともに官僚として活躍し、天正17年、25才の時、敦賀五万七千石を与えられ城主となったが、敦賀が与えられた理由として、敦賀が古来より、日本海の物流の要であり、日本海沿岸の物流の集積地で、それを畿内に運ぶ拠点であったこと、敦賀がかつては渤海など海外とも貿易したことなどが挙げられていました。
 この番組では、吉継は永禄8年(1565)生まれだという説が採られており、外岡氏の見解によるものだと思われます。通説とは違って、三成は吉継は5歳年下になります。
 3年後、文禄の役が起こり、秀吉は15万の将兵を朝鮮半島に送り込み、吉継は三成と共に船奉行に任ぜられ、全国から四千の船を調達し、兵員や食料・弾薬を送るのに活躍したこと、吉継は三成らと共に軍奉行として渡海した時、三成が嫌われたのと違って、吉継を嫌う者は誰もいなかったと、番組では説明され、その典拠として、毛利に送った吉継書状が挙げられていました。
 その書状では、「われらの支持でしんがりを引き受けていただき、感謝しております」「家来が負傷したとのこと、大変心配しております」と大名や家臣たちに細かな気配りを見せていることが述べられています。
 しかし、このことだけをもって、吉継が信頼されており、三成が嫌われていたという証拠にはならないのではないでしょうか。吉継は三成、増田長盛と行動を共にしていましたし、同じ立場でものを見ていたということは、朝鮮半島での戦いをこれ以上続けるべきでないという書状を連名で記していることでもわかります。慶長の役で、現地の武将たちの動きを三成派の軍奉行が秀吉に報告し、それを三成が支持せざるをえなかったため、武将たちの不満がつのりますが、これは後年の事です。それを三成が最初から嫌われていたとするのは問題ではないでしょうか。
 

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