関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像2414 「英雄たちの選択 大谷吉継」9 空白期間・豊臣政権への忠誠心

<<   作成日時 : 2018/10/05 10:28   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 番組「英雄たちの選択 大谷吉継 関ヶ原もう一つのシナリオ」では、吉継は文禄の役で奉行として渡海した後、重い病にかかり、5、6年間籠っていたと述べられていました。
 この点について、「大谷吉継関連年表」(敦賀市立博物館発行の図録「大谷吉継 人とことば」所収)の中で、文禄2年(1593)5月、「小西、石田らとともに明使(偽使)を伴い帰国」と記された後は、文禄3年10月、「直江兼続あて書状で、草津湯治を続けることを伝え、眼を患い花押が据えられないことを詫びる(吉川金蔵氏所蔵文書)」とあり、その後、3年間は空白になっています。
 番組では、秀吉と家康が共に病床の吉継の見舞いに訪れ、それは二人が吉継が豊臣政権の重要な支え手と見なしていた証拠だと説明されていましたが、この見舞いのことも「大谷吉継関連年表」に記載があります。すなわち、慶長2年(1597)9月、「秀吉・家康らが伏見の吉継邸を訪問(鹿苑日録)」と。「鹿苑日録」が出典であることは、番組でも触れられていました。
 吉継の姿勢を語るものとして、東北で一揆が起こった時の吉継書状の中に、「公儀への慮外」という記述があり、豊臣政権への無礼は許さないと宣言しており、吉継にとって豊臣の天下こそが絶対であったと説明されていました。
 吉継が豊臣政権の忠誠心がどこから来たかという点については、茶会での回し飲みの折、吉継が茶碗に鼻水を垂らしてしまい、秀吉がその茶碗を受け取って一気に飲み干し、吉継の窮地を救ったという「英雄論」に書かれている逸話が紹介されていました。この時の秀吉への感謝の念が吉継の心の中にずっとあったということを物語る話ですが、この逸話にはその茶碗の茶を飲みほしたのは三成だという説もあって、三成と吉継の友情を語るには欠かせないエピソードになっています。しかし、これはあくまで逸話であって、事実であると確かめられた話ではありません。
 こういうことよりも、大谷吉継の母の東殿が、秀吉夫人の北政所に仕えていたこと、三成同様若い時から秀吉の側近として仕えていたことが大きかったのではないでしょうか。
 番組では、秀吉の死後、五大老・五奉行によるう合議制で政権が運営されたものの、家康と三成の対立が早々に浮上し、それがやがて日本全国に拡大してゆくと説明されていましたが、2人の対立で秀吉死後の状況を単純化して解釈しようとするのは正しくないと思われます。朝鮮からの撤兵にしても、2人は協力して事を運びました。むろん、家康が秀吉の遺命に反して婚姻を結ぼうとした時は、四大老・五奉行の名で糾弾しましたが、これも三成と家康の対立というよりも、家康の独断専行を、他のメンバーが止めようとするものでした。 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像2414 「英雄たちの選択 大谷吉継」9 空白期間・豊臣政権への忠誠心 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる