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zoom RSS 三成の実像2416 番組「にっぽん!歴史鑑定“島津退き口”」1 三成の挙兵を家康は見越していた?

<<   作成日時 : 2018/10/07 00:39   >>

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 BSの番組「にっぽん!歴史鑑定『関ヶ原の戦い〜運命を変えた“島津退き口”』」の中で、明治維新で薩摩藩が活躍できたのは、関ヶ原の戦いで島津隊が逃げ延び、薩摩藩が存続できたからという見方が示されていましたが、これは一般的に広く認められた見解であると思われます。
 番組では、家康が会津攻めに行く時、三成が挙兵することを見越していたという捉え方がされていました。その時に、伏見城が危なくなるので、留守居役の鳥居元忠だけでなく、家康は島津義弘に伏見城に入るよう頼んでいたが、実際、三成が挙兵した時、義弘は伏見城に入ろうとしたものの、鳥居はそれを拒否したと説明されていました。
 まず、三成の挙兵を家康が見越していたという捉え方は、小説やドラマでよくされますが、徳川史観に基づいたもので、それを示す一次史料もなく、根拠は薄いと私は思っています。家康暗殺未遂事件の時も、三成は家康の要請に応じて前田家を牽制するため出兵していますし、三成の嫡男の重家も隠居した三成に代わって秀頼に仕えていますから、家康は三成のことを信用していたのではないでしょうか。
 鳥居が義弘の入城を拒否した理由について、番組の中で桐野作人氏は家康が義弘としていたのは口約束であり文書が存在していなかったこと、しかも外様大名である義弘が裏切ることを恐れたからだと説明されていました。口約束だったという桐野氏の見解は、「関ヶ原 島津退き口」(学研新書)の中で、詳しく述べられています。
 同書の中で、慶長5年4月27日、「家康は上杉景勝の上洛が延引しており、その返事次第では家康自身が出馬することになるだろうから、そのときは義弘に伏見城の留守番をしてほしいと申し出た。義弘は家康との会談ののち、国許の兄義久に書状を送って、伏見城留守番のことを知らせている」こと、またこの義弘書状には、「家康の下知である伏見城留守番を勤めるためには、多数の軍勢が必要なので、国許の義久に急ぎ兵を上らせてくれるように依頼していること」が記されています。
 注目すべきは、家康が義弘に伏見城留守居を要請しているのが4月27日の段階であり、上杉のもとから直江状が届く前のことです。直江状に家康が激怒し、会津攻めを正式に決めるわけですが、桐野氏の同書でも、4月のこの段階では、「家康が伏見城の守備をそれほど重視しているとは思えない」と記されています。
 家康との口約束があったとしても、この時点では、家康は上杉と戦うことを本気で考えていたわけではなく、その後、家康が会津攻めを決定した時点で、状況が変わり、家康は鳥居元忠一人に伏見城を任せたのではないでしょうか。むろん、家康が会津攻めに向かう時点でも、上方で大きな動きが起こることは予想していなかったと私は見ています。

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