関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2418 番組「にっぽん!歴史鑑定“島津退き口” 」3 関ヶ原は従来の捉え方・島津は二番備

<<   作成日時 : 2018/10/09 10:51   >>

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 BSの番組「にっぽん!歴史鑑定『関ヶ原の戦い〜運命を変えた“島津退き口”』」の中で、関ヶ原の戦いについては、大半、従来の説通り説明されていました。すなわち、三成が陣を置いたのは笹尾山で、島津隊はそのそばに陣を置いていたこと、関ヶ原に西軍8万、東軍7万が集結したこと(各武将の布陣位置は通説通り)、午前八時に井伊隊が宇喜多隊に発砲し戦いが始まったこと、松尾山の小早川秀秋が裏切り、山中にいる大谷隊に襲いかかり西軍が劣勢となったこと、この間も島津隊は動かなかったこと、三成は島津隊の元に使者を送るものの、義弘は兵を動かさなかったこと、この間、小西隊、宇喜多隊が敗走し西軍は混乱していたこと、次に三成自身が出陣するよう要請に来たものの、豊久は「人のことなど構う暇などござらぬ」と跳ね返したこと。
 関ヶ原の戦いの主戦場は関ヶ原ではなく、山中であったこと、秀秋は最初から裏切り、関ヶ原表に進出していた吉継を襲い、吉継は秀秋と家康方軍勢に挟撃され、壊滅したことなどという白峰旬氏の見解は全く紹介されていませんでした。
 もっとも、三成が島津隊に出陣要請したのは、小早川秀秋が裏切る前だったという従来の説とは違って、番組では裏切ってからだったという指摘は目新しいものでしたが、これは桐野作人氏の見解が反映されているように思いました。
 島津隊が兵を動かさなかった理由について、桐野氏は番組の中で次のように説明されていました。
 義弘が三成を嫌って兵を動かさないような、感情で動く人物ではなく(このことは昨日付の拙ブログで記しましたが)、義弘は猛将タイプ、三成は事務方タイプだったから、馬は合わなかったかもしれないが、そのことがて原因ではなかったこと、島津隊は人数が少なく戦機を見てから戦いに参加する二番備えだったから、決して戦わなかったわけではないこと、義弘は戦いが始まって戦機を見極めようと待っていたが、小早川秀秋が裏切って戦機がなくなってしまったことが大きいと。
 島津隊が二番備であったことは、桐野氏の「真説 関ヶ原合戦」(学研M文庫)に島津側の史料の記述をもとに指摘されていますが、白峰旬氏もそれを踏まえて、三成方が陣を構えたのは、一次史料の検討から山中であったという新解釈を主張され、新たな布陣図が示されていますが、島津隊は後備(二番備)の位置に描かれています。高橋陽介氏も、三成方はやはり山中に布陣したという白峰氏の見解を踏襲された上で、各武将の布陣位置を具体的に推定されていますが、前述したように、三成の布陣場所は自害が峰付近、島津隊はその後方の、今までは大谷吉継の陣があったあたりだと推定されていますから、二番備であったことは一目瞭然です。  
 
 

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