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zoom RSS 三成の実像2441 白峰旬氏「豊臣七将襲撃事件は単なる『訴訟騒動』」8 長盛も玄以も伏見城内に籠る

<<   作成日時 : 2018/11/01 10:50   >>

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 白峰旬氏の「豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は『武装襲撃事件』ではなく単なる『訴訟騒動」であるーフィクションとしての豊臣七将襲撃ー」(別府大学史学研究会『史学論叢』第48号所載)の中で、「言経卿記」「義演准后日記」「舜旧記」「北野社家日記」「三藐院記」「お湯殿の上の日記」「多聞院日記」を精査・検討されていますが、M点目として、「多聞院日記」閏3月9日条の「伏見では、石田三成・前田玄以・増田長盛が『一所』にとじこもったが、扱い(=仲裁)があったということである」という記述に対して、次のように指摘されています。
 すなわち、「これまでの通説では、石田三成が籠った場所は伏見城内の三成の屋敷であり、その理由は、豊臣七将の襲撃に対する軍事的抵抗と理解されてきたが、豊臣七将襲撃事件がフィクションであることを勘案したうえで、三成一人ではなく前田玄以・増田長盛(つまり、五奉行のうちの三人)も伏見における『一所』(=一つの場所)に籠ったということからすると、籠った理由は政治的な謹慎という意味にとらえられる(軍事的な抵抗であれば、三成一人が籠ればよかったはずである)」と。
 この日記の記述について、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)」の中で、「三成だけでなく、長盛や前田玄以(おそらく長束正家も)伏見城内に籠って、七将あるいは家康と対峙していた」と解説されていますが、彼ら奉行衆は白峰氏の同書にある「軍事的抵抗」をしていたという捉え方です。
 光成氏の見解は、前述したように、三成を襲撃する事件が実際にあったという通説に基づいていますから、「軍事的抵抗」というのは当然の流れですが、襲撃ではなく、三成を切腹させよという訴訟騒動であったとすれば、見方は変わってきます。しかし、「政治的な謹慎」であったかどうかは、毛利元康宛毛利輝元書状に記されているように、三成が輝元と結んだ行動をしようとしていた計画が実際あったとすれば、さらなる検討が必要だという気がします。
 光成氏の同書では、同書状の中で、「増田長盛についても皆がいろいろ言っていますが、三成一人(の処分)で済ますとの内意です」という記述から、「直接襲撃の対象にはならなかったものの、長盛も責任を追及されていたことが判明する。軍記類では三成の専横のみが強調されるが、豊臣政権の政策や処分などは行政機構全体で決定したものであり、三成一人の責任ではない」と指摘されています。
 こういうことからすると、切腹させようという訴訟騒動が起こったのは三成に対してだけではなく、奉行衆たちに対する可能性もあるのではないかという気もします。確かに、「北野社家日記」閏3月7日条には、「石田三成に腹を切らせようとした」と記されているものの、代表として三成の名が記されているだけで、他の奉行衆も対象ではなかったかも思いますが、ここのあたりの今後の検討課題ではないでしょうか。

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