関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2451 布谷陽子氏「関ヶ原合戦の再検討」11 清正も輝元が総大将と認識・秀家の豊国社参詣

<<   作成日時 : 2018/11/11 10:38   >>

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 布谷陽子氏の「関ヶ原合戦の再検討ー慶長5年7月17日前後ー」(谷徹也氏編『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成』【戎光祥出版】所載)の中で、毛利輝元が関ヶ原の戦いにおいて三成ら豊臣政権側の総大将として機能していた証左として、9月24日付で加藤清正が鍋島直茂に宛てた書状に、「天下之様子、関ヶ原表之合戦、輝元方敗軍ニ付」という記述があることが挙げられ、「清正が三成ではなく、輝元の名を挙げていることは、当時、輝元が総大将として認知されていた表れといえる」と指摘されています。
 ちなみに、九州にいる清正が関ヶ原の戦いの勝利を知った日について、熊本日日新聞社編「加藤清正の生涯」の中で、9月28日付で細川家の重臣である松井康之・有吉立行宛ての清正書状が挙げられています。
 すなわち、その中に、「(黒田)如水からいい知らせがあり、非常に本望である。濃州(美濃)での戦いの結果を聞き、非常に気分がいい」という記述があると。
 ここからは黒田如水から関ヶ原の戦いの勝利の報を聞いたことになりますが、上記の9月24日付の書状があることから見て、24日には勝利を知っていたわけです。
 さて、布谷氏の同書では、宇喜多秀家の動向について、豊国神社の社僧を務めた梵舜の日記「舜旧記」に、秀家が7月5日と7日、豊国神社で儀式を執り行ったと記されていることが取り上げられています。
 この記述に関して、出陣の儀式であることを示唆しているという河合秀郎氏の見解が紹介されています。
 このことに関して、布谷氏の同書では、「かつて、秀家は、慶長2(1597)年6月から7月にかけても醍醐寺を参詣しているが、このときの目的は明らかに朝鮮出兵における出陣の儀式であった」と記され、その根拠として、【註】に「義演准后日記」の記述が挙げられています。
 そのうえで、「今回の参詣も出陣の儀式であった可能性は高く、また、豊臣秀吉を祀っている豊国神社を参詣している点にも意味がある。加えて、7日の条に見える『東殿』とは、北政所の側近にして、西軍の主力となった大谷吉継の母といわれている人物の可能性があることにも注目しておきたい」と記されています。
 秀家の豊国神社参詣が、はっきり反家康の決起を示すものだとは指摘されていませんが、それを示唆するような表現です。秀吉のこの参詣については、出陣のためだということは共通の認識だと思われますが、反家康挙兵のための参詣だとする白川亨氏の見解と、会津攻めのための参詣だという大西泰正氏の見解があります。大西氏によれば、この段階で秀家は三成らの挙兵を知らず、三成方に誘われたのは7月12日前後の事だと指摘されています。 

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