関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2452 布谷陽子氏の「関ヶ原合戦の再検討」12 三奉行の動向

<<   作成日時 : 2018/11/12 10:28   >>

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 布谷陽子氏の「関ヶ原合戦の再検討ー慶長5年7月17日前後ー」(谷徹也氏編『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成』【戎光祥出版】所載)の中で、三奉行の動向についても次のように記されています。
 すなわち、「長盛の行動は、三成と吉継が挙兵の談合をしていると密告した7月12日の家康重臣の永井直勝宛ての書状をもって動向は曖昧ということもできるが、しかし、同日7月12日は前述した通り、三奉行が輝元に出馬を要請した日なのである。つまり、すでに長盛は西軍の挙兵計画に参画していたのである」と。
 7月12日付の増田長盛書状については、偽書ではないかという白峰旬氏の見解があります。そうだとすれば、長盛の姿勢は、豊臣政権側に付いていたということで一貫性があることになります。
 布谷氏の同書では、玄以・長盛・正家の三奉行が、金森長近に宛てた勧誘状が取り上げられ、次のように解説されています。
 すなわち、「家康が秀吉の遺命に背いているとして秀頼のために立ち上がるよう」勧誘したもので、「注目すべきは、三奉行が長近を西軍に引き入れようと画策していたことである。長近は関ヶ原合戦当時、飛騨高山を拠点としてい」て、東軍と西軍の「境界線ともいえる場所である」ことから、「最終的に長近は東軍に属したのであるが、三奉行が地理的に北に位置する金森氏を西軍に引き入れようとしていたと考えると、書状は大きな意味を持つものである」と。
ちなみに、金森長近は信長の家臣でしたが、本能寺の変の後、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍に属したため、剃髪しますが、その後、秀吉のもとで功績を上げ、天正15年に飛騨一国を与えられました。
 こういうことを根拠にして、布谷氏の同書では、次のように結論づけられています。
 「関ヶ原合戦で西軍を組織し、挙兵に関与していた者は三成一人ではなく、三成を含めた『二大老・四奉行』を中心として形成されていった連合なのである。さらに前述した『旧記雑録』から、これに準じる形で小西行長や吉継も挙兵に深く関わっていたことが考えられるのである」と。
 前にも述べたことですが、こういう考え方が、「内府ちかひの条々」が出されて以降、家康の公儀性が失われ、石田・毛利連合政権が成立したという白峰旬氏の見解につながっている気がします。
 「前述した『旧記雑録』」というのは、7月15日付の島津義弘書状のことであり、この中に談合していた人物として、二大老・四奉行(ただし、この時点で三成は奉行に復帰していないので、奉行の中には含まれていず、別立てになっています)の他に、小西行長、大谷吉継の名が記されています。
 
 
 

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