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zoom RSS 三成の実像2453 白峰旬氏「豊臣七将襲撃事件は単なる『訴訟騒動』」14 一次史料にない家康暗殺事件

<<   作成日時 : 2018/11/13 18:42   >>

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 白峰旬氏の「豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は『武装襲撃事件』ではなく単なる『訴訟騒動」であるーフィクションとしての豊臣七将襲撃ー」(別府大学史学研究会『史学論叢』第48号所載)の中で、次のような重要な指摘がされています。
 すなわち、「関ヶ原の戦い関係の事柄(事案)では、後世の軍記物の影響から、やたら針小棒大にショッキングな演出やネーミングがされる傾向が強い」と。
 豊臣七将襲撃事件もその一つであり、実際は「武装襲撃」ではなく、単なる「訴訟騒動」だったと結論付けられているわけですが、【註】の中で、「通説では慶長4年9月におきたとされる徳川家康暗殺未遂事件についても、一次史料による裏付けが取れるのかどうか検討が必要である」と指摘されています。
 具体的には、「北野社家日記」慶長4年9月11日条、「義演准后日記」同年9月13日条、「言経卿記」同年9月12日条、13日条、14日条に、「『大坂雑説』(或いは『大坂雑切(説ヵ)』、『大坂ニテ雑説』)の記載はあるが、家康の暗殺未遂というような記載は一切ない」と記されています。
 暗殺計画が実際にあったのか、あったとするなら、誰が仕組んだのか、原因は何であったのか、誰がそれを密告して漏れたのか、あるいは暗殺計画はでっち上げで家康が自作自演したことなのか、検討すべきことが少なくありません。確かなのは、前田利長が家康に屈服して、利家の未亡人のまつが人質として江戸に赴いたこと、大野治長らが処分され、浅野長政が隠居したこと、この件に関して、三成や吉継が家康の要請を受けて、前田家を牽制するために、兵を出していることなどです。
 カンハン氏の「看羊録」には、暗殺計画を密告したのは、引退していた三成であり、三成は家康に媚びていたと記されていますが、あくまで伝聞ですから、どこまで信を置ける情報か、他の史料から確かめる必要があります。「看羊録」では、清正が三成の佐和山隠居を裁定した家康に不満をつのらせ、前田利長、宇喜多秀家、浅野長政、細川忠興、伊達政宗らと結んで家康を暗殺しようと計画したとも記されていますが、彼らは前田派ですから、前田派と家康派が対立していたという捉え方です。この点も、事実なのかどうか、検討課題です。
 家康暗殺未遂事件に関連して、谷徹也氏の「総論 石田三成」の中で、「秀吉死後の家康の権力過程全てを『簒奪』と捉える見方には賛同できない」という見解が示されています。家康が、秀吉の遺命に反して他の大名と婚姻を結ぼうとした事、三成を失脚させた七将による襲撃事件(実際は「訴訟騒動」だとするのが白峰氏の見解ですが)、家康暗殺計画、これらすべては家康の「天下簒奪」を目論む企てだったとするのが通説ですが、それに対する否定的見解が示されています。宮本義己氏も同様の見解であり、「家康が公儀を掌握して秀頼を補佐する体制であったと主張している」と紹介されています。
 

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