関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像2442 白峰旬氏「豊臣七将襲撃事件は単なる『訴訟騒動』」9 奉行職の罷免ではない

<<   作成日時 : 2018/11/02 12:03   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 白峰旬氏の「豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は『武装襲撃事件』ではなく単なる『訴訟騒動」であるーフィクションとしての豊臣七将襲撃ー」(別府大学史学研究会『史学論叢』第48号所載)の中で、「言経卿記」「義演准后日記」「舜旧記」「北野社家日記」「三藐院記」「お湯殿の上の日記」「多聞院日記」を精査・検討されていますが、O点目の指摘も、これまでは考えられてこなかった非常に重要な新たな見解です。
 すなわち、「表1の関係史料では、三成は佐和山へ『隠居』或いは『隠遁』したと記されているのみであり、公職をすべて剥奪(奉行職の罷免・解任など)されたとは記されていない(単に子の重成に家督を譲っただけであり、名目的な隠居であった可能性もある)」と。
 拙ブログ記事で、今まで三成襲撃事件の責任を三成が取らされ奉行職を解かれて佐和山に引退したとたびたび記してきました。しかし、「引退」と「奉行職解任」とは別であり、解任ではなかったという白峰氏の見解は衝撃的で、目からうろこが落ちる思いがしました。
 この点について、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)の中で取り上げられている毛利元康宛毛利輝元書状の中に、「三成一人が佐和山へ隠居し、天下のことについて関与しないようにとのことです」という記述があります。「天下のことに関与しない」ことが、私も奉行職の解任だと思っていたわけですが、一時的なものであったというのが、白峰氏の見解であり、それはP点目の指摘で次のように記されています。
 「よって、三成は中央政府から一時的に失脚したものの、問題の本質としては、佐和山に一時的に謹慎したにすぎないのであり、豊臣政権(豊臣公儀)の奉行職への復帰(政治的復権)の余地は十分残していたことになる(表1の関係史料には、三成は政治的失脚・軍事的敗北をしたとは書かれておらず、単に家を息子にゆずって『隠居』したと書かれているにすぎない)」と。
 白峰氏が作成された表1には、確かに三成が「隠居」「隠遁」したというような記述しかありません。
 すなわち、「舜旧記」閏3月9日条には「三成は江州佐和山城へ隠居した」、「言経卿記」閏3月10日条には、「石田三成は『無事』にて、早朝に近江国佐和山へ隠遁した」、「義演准后日記」同日条には、「石田三成は江州佐和山城へ隠居した」、「北野社家日記」同日条には、「今朝、石田三成が佐和山へ下った。三成は隠居して、(子の)重成に家を譲った」、「三藐院記」同日条には、「石田三成が佐和山へ隠居した」と記されています。
 それだから、翌年、家康が会津攻めに向かった際、三奉行が「内府ちかひの条々」を出した後、反家康の勢力が結集し、三成も奉行職に復帰できたというわけで、このことについても白峰氏は指摘されており、この見解には十分納得できるものがあります。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像2442 白峰旬氏「豊臣七将襲撃事件は単なる『訴訟騒動』」9 奉行職の罷免ではない 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる