関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2460白峰旬氏の講演「関ヶ原の戦いを再検討する」5 伊達政宗の見通し

<<   作成日時 : 2018/11/21 10:40   >>

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 昨年8月20日に、佐賀県立佐賀城本丸歴史館で行われた、歴史企画「関ヶ原の戦いを再検討するー龍造寺・黒田・加藤を中心にー」において白峰旬氏は基調講演「関ヶ原の戦いを再検討する」をされましたが、その内容報告が、別府大学史学研究会『史学叢書』第48号に掲載されました。その内容紹介の続きです。
 「家康にはこの戦いに勝てる見込みはなかった」という見解の根拠として、8月3日付の井伊直政・村越直吉宛伊達政宗書状が挙げられ、その内容が取り上げられると共に、考察が加えられています。
 すなわち、「家康の政治的見通しが甘かったため、大坂の三奉行が機先を制してこのような事態(石田・毛利連合政権による反家康の挙兵)になった」こと。
 「政宗は、家康に対して、大坂へ確かな使者を派遣して三奉行を諫め、秀頼に対して家康が御奉公をすべきである、としている」が、このことは「家康が大坂の奉行衆と戦うのではなく、政治的妥協をして秀頼に従うようにすすめた(家康の完全な政治的敗北を認めるようにすすめた)」ことを示していること。
 「政宗が家康に対して、大坂の奉行衆と軍事的対決をすることに全く触れていないことは、戦況として豊臣公儀(石田・毛利連合政権軍)が圧倒的に有利であり、この時点で戦いを挑んでも家康にはとても勝ち目はない、と見ていたことを示す」もので、「つまり、豊臣公儀=豊臣秀頼(天下人)の敵になった家康は政治的にも軍事的にも追い詰められている」と指摘されています。
 伊達政宗は当時、東北にいましたから、どこまで上方の奉行衆の動き及び関東の家康の動きをつかんでいたのか検討すべき点はありますが、「三奉行を諫め」「秀頼に従うようにすすめた」などの表現から、ある程度、正確な状況を把握していた可能性は高いと思われます。
 政宗は会津攻めのため、上方を離れて、領国に戻りますが、その前後の動きについて、福田千鶴氏の「伊達政宗の居所と行動」(藤田讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収)には、次のように記されています。
 慶長5年「6月14日大坂発、伏見着、15日伏見逗留、16日伏見発、7月12日北目城着」、「21日白石城攻略のため北目城発、名取郡岩沼城宿陣、22日在岩沼城、23日岩沼城宿陣」、「24日白石城攻略」「この間、在白石城。8月11日白石城普請」などと。
 よって、上記の書状を記した時点では、政宗は白石城にいたことになりますが、白石城は上杉家の北の守りの城であり、政宗は早々と上杉家に攻撃をしかけたきたわけです。伊達家は旧領である米沢を奪取しようという動きに出たことになります。政宗の本心としては三奉行と家康の早期の事態収拾を望んでいなかったのかもしれません。

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