関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像2461 白峰旬氏の講演「関ヶ原の戦いを再検討する」6 豊臣秀頼は天下人

<<   作成日時 : 2018/11/22 11:09   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 昨年8月20日に、佐賀県立佐賀城本丸歴史館で行われた、歴史企画「関ヶ原の戦いを再検討するー龍造寺・黒田・加藤を中心にー」において白峰旬氏は基調講演「関ヶ原の戦いを再検討する」をされましたが、その内容報告が、別府大学史学研究会『史学叢書』第48号に掲載されました。その内容紹介の続きです。
 講演会では、「秀頼は天下人になれずに大坂の陣で死んでいった(秀頼は次期天下人のまま死んでいった)」という、「通説的な見方は誤り」で、「秀頼は豊臣秀吉が後継指名した時点で天下人になった、と考えるべき」であり、「そう見ないと、家康の公儀簒奪の過程が見えてこない」と述べられています。
 このことに関連して、「石田三成・毛利輝元がなぜ秀頼を推戴して反家康の(諸大名からの)兵力動員が可能だったのか、なぜ家康を豊臣公儀から排除(放逐)することが可能だったのか」という点について、「秀頼が天下人であったからこそ可能だった」のであり、「秀頼が単に次期天下人ではこうしたことは不可能だった」と指摘されています。
 また「反家康派(反家康グループ)は家康の露骨な公儀簒奪を阻止しようとした」が、そこには「家康の公儀簒奪(秀吉の遺命への反逆)のやり方に対する激しい憤りがあった」とも述べられています。
 秀頼が天下人であり、反家康派が家康弾劾状である「家康ちかひの条々」を出すことによって、毛利輝元と宇喜多秀家の二大老・三成を含めた四奉行による新たな豊臣公儀体制が形成され、家康の公儀性が失われたとするなら、北政所が家康の味方をしていたという従来からの捉え方も間違っているということになります。北政所は豊臣家のために動いていたのであり、秀吉の死後、大坂城から京都新城に移ったのも、豊国社の管理と朝廷交渉のためであったという福田千鶴氏の見解がありますし、関ヶ原の戦いの際も大津城の開城交渉のため、淀殿と連携して使者を送っていたという跡部信氏の指摘もあります。また、関ヶ原の戦いの直後、北政所が御所に逃げ込んだという事実も、彼女が豊臣公儀の側についていたという証左になります。
 家康が豊臣公儀を簒奪しようとしていたということに対して、高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ@ 豊臣秀吉の死去は朝鮮在陣の島津義弘らにどのように伝わったのか」の中で否定的見解が示されています。すなわち、「『徳川家康は豊臣秀吉にゆずられてすでに政権を掌握していた』『徳川家康は豊臣政権を簒奪しようとして、石田三成(?)に戦いを仕掛けたわけではない』という、従来とはことなる新しい『関ヶ原観』」を展開されています。家康が政権を譲られたことを示す一次史料として、フランシスコ・パシオの「フランシスコ・パシオ師の太閤秀吉の臨終についての報告」やカンハンの「看羊録」の記述が挙げられています。もっとも、秀頼が成人したあかつきには、政権を秀頼に返すという条件も記されていますから、秀頼が天下人ではなかったということにはならないと考えられます。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像2461 白峰旬氏の講演「関ヶ原の戦いを再検討する」6 豊臣秀頼は天下人 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる