関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2463 白峰旬氏の講演「関ヶ原の戦いを再検討する」8 反家康の挙兵2 鍋島勝茂書状

<<   作成日時 : 2018/11/24 10:53   >>

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 昨年8月20日に、佐賀県立佐賀城本丸歴史館で行われた、歴史企画「関ヶ原の戦いを再検討するー龍造寺・黒田・加藤を中心にー」において白峰旬氏は基調講演「関ヶ原の戦いを再検討する」をされましたが、その内容報告が、別府大学史学研究会『史学叢書』第48号に掲載されました。その内容紹介の続きです。
 講演では、「当時の秀吉死後の政権内のパワーゲームは現在の我々では想像もつかない状況だったのであろう」、「現在の我々はその後の結果を知っているので、家康中心に当時の歴史像を組み立てるが、なかなかすさまじい状況(権力闘争)であったことは、『十六・七世紀イエズス会日本報告集』を読むとよくわかる」と述べられています。
 「十六・七世紀イエズス会日本報告集」については、白峰氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原の戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号所載)に詳述されていますし、以前拙ブログでも紹介しました。
 三成ら反家康派の挙兵が、「事前にかなりよく練られた挙兵計画だった」ことを示すものとして、講演では、慶長5年7月16日付の鍋島勝茂書状が挙げられています。その内容は「鍋島直茂が上方へのぼることは増田長盛へ『申分』(言い訳程度の意味か?)を遣わすので、上方へのぼらなくても支障はない」というものです。その書状の意味合いについて、「『内府ちかひの条々』を出す前日の時点で、すでに石田・毛利方(豊臣公儀)が諸大名に兵力動員をかけていた証拠となり、その意味でも重要な文書(一次史料)と言える」と解説されています。 
 ちなみに、鍋島勝茂の嫡子が直茂ですが、勝茂は関ヶ原の戦いの際には三成方に属していますが、このあたりの勝茂の事績について、安藤英男氏編「石田三成のすべて」(新人物往来社)所載の「西軍武将事典」には、次のように記されています。
 「関ヶ原役には、初め西軍に属して伏見城攻めに加わり、ついで毛利秀元、長宗我部盛親、吉川広家、長束正家らと伊勢の安濃津城を攻めて陥した。関ヶ原で東西決戦の日には、福島正則の長島城に対する押さえとして、北伊勢の野代に在陣していた。関ヶ原で味方が大敗したと聞くや、東軍に変わって帰国し、父と共に毛利秀包の籠れる久留米城を攻め取り、ついで立花宗茂を柳川城に攻めた。前科を償う形で、戦後異常なく、慶長12年、父が致仕したので家督を継ぎ、佐賀城に治した。大坂冬ノ陣にも出動、島原乱にも射手として原城を攻めた」などと。 
 勝茂の変わり身の早さがうかがえますが、こういうふうにして生き残った武将は少なからずいました。
  

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