関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2465 白峰旬氏の講演「関ヶ原の戦いを再検討する」10  当日に小早川はどこにいたのか?

<<   作成日時 : 2018/11/26 10:43   >>

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 昨年8月20日に、佐賀県立佐賀城本丸歴史館で行われた、歴史企画「関ヶ原の戦いを再検討するー龍造寺・黒田・加藤を中心にー」において白峰旬氏は基調講演「関ヶ原の戦いを再検討する」をされましたが、その内容報告が、別府大学史学研究会『史学叢書』第48号に掲載されました。その内容紹介の続きです。
 「9月15日に小早川秀秋はどこにいたのか?」という問題について、「ひとつの想定として、大谷吉継と共に最前線に移動していたか?そして、大谷吉継の背後から裏切ったのか?」ということが述べられています。
 白峰氏の説では、関ヶ原表に出ていた大谷隊は、前から家康方軍勢の攻撃を受け、背後から裏切った小早川隊に突かれ、両軍に挟撃されて壊滅したとされています。もし、そうなら、その時点で大谷は小早川の動きを警戒していなかったことになりますが、このあたりは今後の検討課題だと思われます。
 講演会では、「一次史料(同時代史料)には『南宮山』という名称は出てくるが『松尾山』という名称は出てこない」こと、「松尾村という地名は一次史料にあるが松尾山という名称は関ヶ原関係の一次史料に出てこない」こと、「9月12日付増田長盛宛石田三成書状(『古今消息集』、中村孝也『徳川家康文書の研究』中巻、684頁)には『松尾之城』と出てくるが、この文書は内容的に再検討の文書。そして、『松尾山』とは書いていない」、「よって、慶長5年当時、松尾山という呼称があったのかどうか検討する必要がある」ということが述べられています。
 この9月12日付の三成書状は、増田長盛に宛てたものの、途中で家康方に奪われ、相手に渡らなかったと云われているものですが、この書状は写ししかなく、内容的にも偽文書ではないかと白峰氏によって指摘されています。この文書については、中井俊一郎氏の「石田三成の手紙」(サンライズ出版)の中でも、本当に三成が書いたものか疑わしいという意味のことが記されていますし、私も偽文書ではないかと思っています。
 通説では、9月14日に小早川秀秋が松尾山にいた伊藤盛正を追い出しで、勝手に陣取ったとされています。三成らは松尾山に毛利輝元に入ってもらおうとしていたものの、それを動きの怪しい小早川に奪われてしまったために、それを牽制すべく三成方軍勢が大垣城から関ヶ原方面に移動したという中井氏の見解もありますし、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)にもそのことは記し、中井氏自身もその見解を展開されています。また「板坂卜斎 慶長記」にも、三成方軍勢が関ヶ原に移動した原因について、小早川が「むほん」を起こした風聞があると記されていますが、これは後年の記述ですから、どこまで信が置けるかどうかわかりません。
 小早川が松尾山にいたという通説が覆るなら、それなら秀秋はどこにいたのか、また三成方が移動した理由についても、もう一度考え直す必要があるかもしれません。白峰氏は、三成方の移動は、後詰だった南宮山のさらに後詰のためだったという見解を示されています。

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