関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2468 白峰旬氏の講演「関ヶ原の戦いを再検討する」12 吉継は大垣城に入城したのか?1

<<   作成日時 : 2018/11/29 17:57   >>

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 昨年8月20日に、佐賀県立佐賀城本丸歴史館で行われた、歴史企画「関ヶ原の戦いを再検討するー龍造寺・黒田・加藤を中心にー」において白峰旬氏は基調講演「関ヶ原の戦いを再検討する」をされましたが、その内容報告が、別府大学史学研究会『史学叢書』第48号に掲載されました。その内容紹介の続きです。
 「大谷吉継がどのようにして戦場(関ヶ原)に来て、どこに布陣したのか?」という問題について、「通説では、大谷吉継の山中への布陣は9月3日とする(参謀本部編纂『日本戦史関原役(本編)』)」が、「これは一次史料による根拠がない」と指摘されています。
 そもそも「通説通りならば、大谷吉継は9月3日から9月15日まで約半月も山中という場所に単独で野営していたことになる」が、「こんなことがあり得るのか?」という疑問が呈せられています。
 その理由として、「城攻めなどの直接の戦闘状態にない場合、1週間〜2週間(この場合は約半月)も単独で野営するとは考えられない(想定できない)」という点が挙げられ、「こういう場合、通常であれば本営の城(この場合は大垣城)に入ったと考えるべきではないのか」と指摘されています。
 このことに関して、関ヶ原町観光協会発行の「関ヶ原 名所古跡」の「大谷吉継(吉隆)の陣跡と墓」の中で、次のように記されています。
 「9月3日の到着後、山中村郷士の支援で宇喜多隊ら友軍の陣造りも進め、15日未明の三成ら主力の着陣を待ったという」と。
 私もこの見解に同意し、三成が関ヶ原方面に移動したのは、関ヶ原で戦うことも想定していたからだと思っていましたし、オンライン三成会編「三成伝説」の「美濃・関ヶ原」の章でも、そのように記し、吉継は「陣所造りに励んでいた」とも述べました。
 しかし、確かに白峰氏の指摘の通り、吉継が半月近くも野営していたというのは不自然な気がします。
 講演会では、吉継が、三成らと共に大垣城に籠城していたことを示すものとして、慶長5年10月8日付の秋田実季宛最上義光書状の記述が挙げられていますが、吉継が大垣城に入城していたという説は高橋陽介氏が唱えられているものの、この書状は根拠として取り上げられていないことも指摘されています。
 「この最上義光書状の記載をどのように考えるべきか」ということについて、「この書状では大谷吉継は戦死せずに逃げたと書かれていることから小西行長と単純に取り違えていたのか?」、「或いは、大谷吉継は大垣城に実際に籠城していたのか?」という二通りの解釈ができると述べられています。

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