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zoom RSS 三成の実像2444 白峰旬氏「豊臣七将襲撃事件は単なる『訴訟騒動』」11 三成と家康は対等

<<   作成日時 : 2018/11/04 00:39   >>

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 白峰旬氏の「豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は『武装襲撃事件』ではなく単なる『訴訟騒動」であるーフィクションとしての豊臣七将襲撃ー」(別府大学史学研究会『史学論叢』第48号所載)の中で、「言経卿記」「義演准后日記」「舜旧記」「北野社家日記」「三藐院記」「お湯殿の上の日記」「多聞院日記」を精査・検討されていますが、R点目の指摘は、「多聞院日記」と家康書状の記述から、「家康と三成は互いに相手の子を人質にとったことになる(その意味では三成と家康は対等の関係であったことになる」という点が挙げられています。
 「多聞院日記」の記述というのは、閏3月11日条に「石田三成は、佐和山へ家康の子を取り置いて城(佐和山城)へ入った」と記されていることを指します。
 家康書状は、閏3月9日付のもので、「(石田三成)の子息昨晩我ら所へ被越候」という記述を指します。
 重家のことについては、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)の中で取り上げられている毛利元康宛て毛利輝元書状の中に、次のような記述があります。
 「仲裁が調い、石田三成は佐和山へ向かい、三成の息子(重家)は大坂において秀頼様へ御奉公せよとのことです。お礼のために昨夜、家康(の所へ)息子(石田重家)が来られました」と。
 重家の身分は保証されたわけであり、大坂城には三成の兄の正澄も秀頼に奉公していましたから、恐らく重家の後見人となったに違いありません。家康も人質として子を佐和山に取り置いたというのは、他の史料にも記載があるのかどうか、改めて調べる必要があります。家康の子の結城秀康が、瀬田まで三成を送って行ったというのは有名な話ですが、家康の子が人質に取られたことと関係している可能性もあります。あるいは、結城秀康の同行が、人質と見なされたということも考えられます。本当に家康は子を人質として送ったのか、送ったとしたらその子は誰なのか、その後どうなったのか、これらも検討すべき課題だと思われます。
 人質を交換し合ったのが事実とすれば、白峰氏の見解通り、家康と三成は対等の関係にあったということになります。それは大老と奉行が同等の地位にあったことを示すものと云えます。五大老と五奉行が対等の存在であったことについては、五大老・五奉行の呼称を再検討すべきことも含めて、白峰氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における五大老・五奉行に関する記載についての考察」の中で指摘されています。すなわち、「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』では、五大老・五奉行と区別せずに一つの集合体(基本的には上下関係はなく対等)としてとらえて、『十名の奉行たち』、『十名の統治者たち』、『十名の高官』などと記載されている点は重要である」と。 

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