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zoom RSS 三成の実像2446 白峰旬氏「豊臣七将襲撃事件は単なる『訴訟騒動』」12 家康は伏見城西の丸に入城

<<   作成日時 : 2018/11/06 18:57   >>

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 白峰旬氏の「豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は『武装襲撃事件』ではなく単なる『訴訟騒動」であるーフィクションとしての豊臣七将襲撃ー」(別府大学史学研究会『史学論叢』第48号所載)の中で、「言経卿記」「義演准后日記」「舜旧記」「北野社家日記」「三藐院記」「お湯殿の上の日記」「多聞院日記」を精査・検討されていますが、20点目の指摘は、三成が佐和山に隠居した後、「家康が入ったのは伏見城西の丸であって、本丸ではない」という点です。
 その根拠として、「三藐院記」閏3月12日条の「家康が伏見西の丸へ移った」という記述、「言経卿記」閏3月17日条の「山科言経が伏見へ行き、伏見城西の丸で家康に対面した」という記述が挙げられています。
 よって、「多聞院日記」閏3月13日条の次のような記述について、否定的な見解が示されています。
 「13日の午刻(真昼の12時頃)家康が伏見城本丸へ入ったとのことである。(このため)家康は『天下殿』になられ、めでたいことである」。
 この記述に関する白峰氏の指摘が21点目ですが、「これは多聞院英俊の単純な事実誤認であるので、家康が『天下殿』になったという多聞院英俊の評価(個人の感想)は事実誤認(多聞院英俊の一方的な思い込み)に基づく単なる誤解にすぎない(つまり、この家康が『天下殿』になったという評価は正しい評価ではなく、家康が『天下殿』になっていないというのが正しい評価である)」という内容の指摘です。
 この点について、本多隆成氏の「底本 徳川家康」(吉川弘文館)の中で、「13日に家康は向島の自邸から、伏見城西の丸に移った」と記されているものの、「伏見城は太閤秀吉の政庁であったから、寺社や公家の日記では、『天下殿に成られ候。目出候』、『諸人大慶』などと記されている」と指摘されています。西の丸、本丸に関わらず、家康が伏見城に入ったことが「天下殿」になったと人々に思われているとの認識です。確かに「三藐院記」の上記の記述の後には、「(このことは)諸人にとって大慶である」と記されており、伏見城に家康が入ったこと自体が、当時の人々にとって「大慶」だったものの、家康が「天下殿」になったという見解は、多聞院英俊の個人的なものかもしれません。むろん、そういう英俊のような認識が一般の人々にもあったかどうかは、今後検討すべき課題ではないかと思われますが。
 しかし、白峰氏の22点目の指摘として、「三成の佐和山隠居により、家康の伏見城入城が可能になった、と解釈することもできる」と記されているように、三成が隠居していなかったら、家康が伏見城に入ることはできなかったのはその通りだと思います。三成は伏見城の治部少輔丸で政務を執っていましたし、それは他の奉行衆も同じでした。三成が隠居することで、五奉行の一角が崩れ、家康は三成に取って替わったような形で、伏見城に入ったわけです。

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