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zoom RSS 三成の実像2449 布谷陽子氏の「関ヶ原合戦の再検討」9 7月17日前後の輝元の動向

<<   作成日時 : 2018/11/09 19:10   >>

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 布谷陽子氏の「関ヶ原合戦の再検討ー慶長5年7月17日前後ー」(谷徹也氏編『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成』【戎光祥出版】所載)の中で、「内府ちかひの条々」が出された前後の輝元の動向について記されています。
 7月12日付で玄以・長盛・正家の三奉行が輝元に大坂城入りを要請した書状が取り上げられ、その後の輝元の動きについて次のように記されています。
 「これが広島に届けられると、輝元はすぐさま15日には1万の兵を率いて出発している。なお、この迅速な行動については以前から指摘されてきたところであるが、確かにこの兵数動員を考えるとあまりにも行動が短時間であり、事前に準備がなされていたと思えてならない」と。
 迅速な行動であるとの指摘として、【註】には、笠谷和比古氏の「関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制」が挙げられていますが、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)には、輝元のこの時の行動についていろいろと検討され、「二日間の航行というスピードは驚異的であったことが判明」し、「輝元はあらかじめ奉行衆や恵瓊と決起のタイミングについて打ち合わせ、諸準備を整えたうえで、上坂要請という大義名分を受け、迅速に行動したものと推測されるのである」と指摘されています。
 6月20日付で三成が直江兼続に書状を出していたとするなら、三成はそのあたりから水面下で三奉行や輝元と挙兵の事前準備がなされていたと考えられ、輝元の上坂もその一環であったと思われます。
 布谷氏の同書では、7月15日付で加藤清正宛てに輝元が出した書状が取り上げられ、次のように解説されています。
 「清正は三成憎しの念から東軍に属したことで知られているが、去就に関しては大坂城に豊臣秀頼がいることから大いに迷ったともいわれている。その清正に対して、輝元は大坂城来会と共に西軍加担を促しているのである」と。
 加藤清正が去就に迷っていたという点については、【註】に本多正信ら宛の清正書状の中に、「毛利輝元への返答に対し『于今不能返事』と」する文面があることが記され、「豊臣秀頼への忠節と徳川家康への忠義の間で揺れ動く心境が見て取れる」と指摘されています。
 清正は関ヶ原の戦いの際、結果的に家康方に付きましたが、この点について、熊本日日新聞社編「加藤清正の生涯」の中で、関ヶ原の戦い当日の9月15日付で出された加藤清正起請文が取り上げられ、「清正が秀吉の嫡男秀頼をトップに据えた豊臣政権を存続させようとしていたことがわかる」と指摘されています。

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