関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像2470 白峰旬氏講演「関ヶ原の戦いを再検討する」14 考えるべきポイント・京極高次の動向

<<   作成日時 : 2018/12/01 11:09   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 昨年8月20日に、佐賀県立佐賀城本丸歴史館で行われた、歴史企画「関ヶ原の戦いを再検討するー龍造寺・黒田・加藤を中心にー」において白峰旬氏は基調講演「関ヶ原の戦いを再検討する」をされましたが、その内容報告が、別府大学史学研究会『史学叢書』第48号に掲載されました。その内容紹介の続きです。
 講演会では、「考えるべきポイント」として、次のような点が挙げられています。
 「9月15日当日の大谷吉継の布陣位置(+それまでのルートと所在場所)」
 「9月15日当日の小早川秀秋の布陣位置(+それまでのルートと所在場所)」
 「9月15日当日、小早川秀秋はいつ裏切ったのか?(時間的にいつ頃なのか)」
 「9月15日早朝の戦いはあったのかどうか?」
 大事な点は、「通説の固定的な考えにとらわれるべきでない」ことであり、「現段階では確定ではなく、いろいろな想定(もちろん一次史料による史料的根拠は必要であるが)をした方がいい」と指摘されています。
 今まで、関ヶ原の戦いについて、いかに編纂史料や軍記物の記述を鵜呑みにしてきたかがよくわかりますし、根本的に一から洗い直すことの必要性を痛感します。
 「通説の固定的な考えにとらわれるべきではない」という一例として、7月24日付の中川秀成宛松井康之書状が挙げられ、「京極高次は9月になって突然、家康に味方したのではなく、7月24日の時点ですでに家康方だったとみられていることがわかる」と指摘されています。
 京極高次の動向についての通説的な理解はたとえば、桐野作人氏の「江の生涯を歩く」(ベスト新書)に次のように記されています。
 「高次ははじめ、西軍首脳の大谷吉継に従って北陸攻めに出陣したが、美濃に転戦する途中で大津に戻り、家康に味方する態度を明らかにした。そのため、西軍は9月8日から毛利元康(輝元の叔父)を総大将にし1万数千の軍勢(一説では4万7千とも)が攻め寄せてきた。高次はわずか3千5百ほどの城兵で抗戦した」と。
 もっとも、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)の中で、京極高次の動向について、次のように記されています。
 「近江大津城主の京極高次は西軍に属していたが、家康の会津征討に従っていた弟の高知(信濃飯田城主)を通じて、早くから誼を通じていた。7月26日の家康書状(『譜牒余禄』)においても『我ら事もきっと上洛せしめ候間、御手前の儀、いよいよ堅固仰せ付けらるべく事肝要候、則修理(京極高知)殿先手相加わり候、早速御参会たるべく候』とあり、家康の西上時には同心することを要請されている」と。 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像2470 白峰旬氏講演「関ヶ原の戦いを再検討する」14 考えるべきポイント・京極高次の動向 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる