関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2471 白峰旬氏の講演「関ヶ原の戦いを再検討する」15 戦いの時間経過

<<   作成日時 : 2018/12/02 11:05   >>

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 昨年8月20日に、佐賀県立佐賀城本丸歴史館で行われた、歴史企画「関ヶ原の戦いを再検討するー龍造寺・黒田・加藤を中心にー」において白峰旬氏は基調講演「関ヶ原の戦いを再検討する」をされましたが、その内容報告が、別府大学史学研究会『史学叢書』第48号に掲載されました。その内容紹介の続きです。
 9月15日当日の戦いの時間経過について、次のように述べられています。
 「@家康方軍勢が早朝(日の出以降)に大谷吉継の陣に攻めかかり、その後、小早川秀秋が裏切って大谷吉継の陣を攻めたため、大谷吉継の陣は壊滅し、大谷吉継は戦死した
 Aその後、巳の刻(午前10時頃)に家康方軍勢が山中に布陣した宇喜多秀家、石田三成などの石田三成方本隊を攻撃した
 B合戦の終了時間は午の刻(昼の12時頃)。よって、石田三成方本隊の戦闘時間(合戦開始から終了までの時間)は午前10時頃から昼の12時頃までの約2時間
 C大谷吉継は、それよりも早く、夜明け(日の出)以降に家康方軍勢と合戦をおこない、家康方軍勢と裏切った小早川秀秋の軍勢に挟撃されて敗北して戦死した」
 このことから、「9月15日早朝の戦いはあったのかどうか?」という問題に関しては、「早朝の戦い(大谷吉継の敗北・戦死)はあった」が、「主戦場は石田三成方本隊が敗北した山中での戦いである」と結論付けられています。
 こういう白峰氏の見解は、「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈ーなぜ大谷吉継だけが戦死したのかー」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)に記されており、その論考については、拙ブログでも以前取り上げました。その中で、大谷吉継や小早川秀秋は関ヶ原エリアに布陣し(吉継は開戦前に山中エリアから最前線の関ヶ原エリアに布陣。秀秋は開戦前に松尾山エリアから関ヶ原エリアへ移動して布陣)、その他の三成方軍勢は山中に布陣したと記した図も掲載されており、その三成方軍勢の布陣は東を向いたものになっています。
 家康方軍勢が東から来るのでそれは当然と云えますが、高橋陽介氏の布陣図では、三成方軍勢は山中エリアに位置しているものの、その布陣方向は松尾山を志向したものになっています。高橋氏の説では、松尾山に秀秋がいたという前提があると思われますし、白峰氏の上記の論考でも秀秋は松尾山エリアから移動と記されていましたが、講演会では松尾山に秀秋がいたかどうかは再検討すべきだと述べられていました。このあたり、実際、どうだったのか、今後の研究に俟ちたいと思います。

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