関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2472 白峰旬氏の講演「関ヶ原の戦いを再検討する」16 関ヶ原と山中の違い

<<   作成日時 : 2018/12/03 21:22   >>

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 昨年8月20日に、佐賀県立佐賀城本丸歴史館で行われた、歴史企画「関ヶ原の戦いを再検討するー龍造寺・黒田・加藤を中心にー」において白峰旬氏は基調講演「関ヶ原の戦いを再検討する」をされましたが、その内容報告が、別府大学史学研究会『史学叢書』第48号に掲載されました。その内容紹介の続きです。
 「家康は書状において、山中と関ヶ原を書き分けている(つまり、山中と関ヶ原は別々の場所であると家康は認識していた)」ことが指摘されていますが、その根拠として、9月15日付の伊達政宗宛家康書状では、「今十五日午刻、於濃州山中及一戦」と記されているのに対して、9月24日付の小早川秀秋宛家康書状では、「今度関ヶ原御忠節之儀、誠感悦之至候」と記されていることが挙げられています。
 「このことから、家康方軍勢が石田方本隊(主力)と戦ったのは『山中』、小早川秀秋が戦ったのは『関ヶ原』であった、ということを意味している」、「このことは同時に、小早川秀秋が開戦時に松尾山に布陣しておらず、関ヶ原まで移動していたことを示す」と。
 小早川が山中ではなく、関ヶ原で戦ったことを示すものとして、9月19日付の林正利宛小早川秀秋感状に、「今度、於関ヶ原表、無比類働手柄之段、不可有並之候」と記されていることが挙げられています。
 主戦場が関ヶ原ではなく山中であったということは、白峰氏の「新解釈 関ヶ原合戦の真実」(宮帯出版社)ですでに指摘されていましたが、まず早朝に関ヶ原で大谷吉継が家康方軍勢と小早川秀秋に挟撃されて壊滅したというのが第一段階で、次に山中に布陣した石田方主力部隊が、家康方軍勢の攻撃を受けたとするのが第二段階だというのは、白峰氏の「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈ーなぜ大谷吉継だけが戦死したのかー」(別府大学史学研究会『史学論叢』所載)で論じられていますし、この講演会でも言及されていたことは昨日付の拙ブログ記事で述べました。
 三成方軍勢が大垣城を出て関ヶ原方面に移動した理由については、今後の大きな検討課題ですが、今までよく言われてきたように、家康が三成方に佐和山城を襲うという偽の情報を流させ、関ヶ原におびき出そうとしたという説は、徳川史観とも云うべきもので、家康側が三成方の動きにすぐには気づかなかったという点から見ても否定できます。小早川秀秋が戦い前日から松尾山にいたという通説も考え直す必要があるならば、三成方軍勢が動きの怪しい秀秋を牽制するために、関ヶ原方面に移動したという説も見直さねばならないかもしれません。今のところ、移動理由としてうなずける説は、家康が大垣城の後詰である南宮山に攻撃をすることを三成方が見越して、家康方軍勢を南宮山の毛利勢と挟撃するためだったとする白峰氏の見解です。しかし、その三成方の目論見は毛利勢が家康に屈服して、兵を動かさなかったために、大きく崩れてしまったというものです。
 

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