関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像2474 白峰旬氏の講演「関ヶ原の戦いを再検討する」18 吉川広家自筆書状案

<<   作成日時 : 2018/12/05 11:07   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 昨年8月20日に、佐賀県立佐賀城本丸歴史館で行われた、歴史企画「関ヶ原の戦いを再検討するー龍造寺・黒田・加藤を中心にー」において白峰旬氏は基調講演「関ヶ原の戦いを再検討する」をされましたが、その内容報告が、別府大学史学研究会『史学叢書』第48号に掲載されました。その内容紹介の続きです。
 関ヶ原の戦いの2日後の9月17日付の吉川広家自筆書状案について、次のような問題点など(正しい点も)が指摘されています。
 「書状案なので、いろいろと削除した文章(見せ消ちの箇所)が多く入っており、内容解釈が難しい」
 「吉川広家の自己弁護のフェイクがどこまで入っているのか見極める必要がある」
 「書いてある内容において、何が真実で何が真実でないのかを検討する必要がある」
 「ただし、内容的に見て慶長5年9月17日という『大日本古文書』の年次比定は正しいと思われる(つまり、後年のものではない)」(この根拠として、「『山中合戦』という文言が入っているので関ヶ原の戦い直後の史料として間違いないと考えられる」という点が挙げられています)
 「この書状案には、石田三成などが大垣城から出て関ヶ原へ移動したのは、小早川秀秋の逆意があきらかになったので、山中に布陣している大谷吉継救援のため、としている」が、「当日(9月15日)参戦した島津家家臣史料(『旧記雑録後編三』)を読むと、大谷吉継と石田三成などの諸隊は合流した形跡がない。救援が目的ならば合流するはず。なぜなのか。この書状案が虚偽を書いているのか?史料批判の必要がある」と。
 「板坂卜斎 慶長記」にも、三成方軍勢が移動したのは、小早川が謀反を起こしたためであると記載されていますから、当時からそういう噂があったのかもしれませんし、三成方の移動をそのように解釈していた人が多かったということも考えられます。むろん、中井俊一郎氏の見解の通り、実際、三成方の移動は、動きの怪しい小早川を牽制するためであったのかもしれません。このあたりは、拙ブログで前述したように、小早川が本当に松尾山にいたのかということも含めて、今後検討すべき問題です。
 書状案の問題点もいろいろ指摘されていますが、書いてあることがどこまで信を置けるか、よく内容を吟味する必要があります。他の史料に当たってそれを分析することによって、その真偽を確かめなくてはいけない難しさを痛感します。
 
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像2474 白峰旬氏の講演「関ヶ原の戦いを再検討する」18 吉川広家自筆書状案 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる