関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2476 白峰旬氏の講演「関ヶ原の戦いを再検討する」20 通説と白峰説の違い

<<   作成日時 : 2018/12/07 18:32   >>

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 昨年8月20日に、佐賀県立佐賀城本丸歴史館で行われた、歴史企画「関ヶ原の戦いを再検討するー龍造寺・黒田・加藤を中心にー」において白峰旬氏は基調講演「関ヶ原の戦いを再検討する」をされましたが、その内容報告が、別府大学史学研究会『史学叢書』第48号に掲載されました。その内容紹介の続きです。
 講演会では、関ヶ原の戦いに関する通説と白峰説の違いが要領よく述べられています。
 開戦時間は、「関原軍記大成」などの軍記物によれば午前8時というのが通説であるのに対して、9月17日付の松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署状には午前10時頃(巳の刻)と記されており、「石田方本隊が布陣した山中への家康方軍勢の攻撃開始時刻」だというのが白峰説です。ただし、「当日参戦した島津家の家臣の史料(『旧記雑録後編三』収録)によれば、山中の戦いの以前の時間帯(早朝)に戦いがあり、そこで大谷吉継が家康方軍勢と、裏切った小早川秀秋の軍勢に挟撃されて戦死した」というのも白峰説です。
 小早川秀秋の裏切り時間については、上記の軍記物などによれば、「昼12時頃」で、「家康が命じた問鉄炮による」ものだというのが通説であるのに対して、「開戦と同時に裏切った」というのが白峰説であり、その根拠として、上記の連署状や「十六・七世紀イエズス会日本報告書」などの一次史料が挙げられています。
 両軍の布陣位置について、「石田方は鶴翼の陣で横一線に広く並ぶ」という参謀本部本部が編纂した「日本戦史・関原役」の布陣図が通説で、「家康方はそこに突っ込む形になるので、石田方有利の陣形」だというものです。それに対して、「山中エリアにおいて石田方の諸将は近距離に固まって布陣」し、「家康方軍勢の先制攻撃を受け」、「家康方に攻め込まれてドミノ倒しのように次々と各陣を突き崩されて即時に敗北した」というのが白峰説であり、その根拠として当日参戦した島津家家臣の史料が挙げられています。
 関ヶ原の戦いについて、「関ヶ原が主戦場で関ヶ原に両軍が打って出て両軍が激突」し、「午前中は両軍は一進一退の手に汗握る戦い」だったというのが通説であり、上記の参謀本部編纂の書などが根拠として挙げられています。それに対して、「山中に布陣した石田方諸将に対して、一方的に家康方軍勢が攻め込んだ」、「石田方は打って出て戦っていない。最初から攻め込まれて防戦にまわった」というのが白峰説で、この根拠として上記の連署状や「家康方軍勢が山中へ押し寄せて合戦に及び、即時に討ち果たした」という吉川広家自筆書状案の記述が挙げられています。
 これらのことは、拙ブログでたびたび取り上げているように、白峰氏の「新解釈 関ヶ原合戦の真実」(宮帯出版社)や「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈ーなぜ大谷吉継だけが戦死したのかー」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)に記されており、説得力があり、妥当性も高いと思っています。

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