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zoom RSS 三成の実像2477 白峰旬氏の講演「関ヶ原の戦いを再検討する」21 小山評定の問題

<<   作成日時 : 2018/12/08 10:53   >>

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 昨年8月20日に、佐賀県立佐賀城本丸歴史館で行われた、歴史企画「関ヶ原の戦いを再検討するー龍造寺・黒田・加藤を中心にー」において白峰旬氏は基調講演「関ヶ原の戦いを再検討する」をされましたが、その内容報告が、別府大学史学研究会『史学叢書』第48号に掲載されました。その内容紹介の続きです。
 いわゆる小山評定があったとする本多隆成氏と、否定論の白峰氏の間で、「小山評定論争」が続いていることも講演会で述べられていましたが、この論争については、拙ブログでも前述しました。
 白峰氏の否定論の根拠として、次のような点が挙げられています。
 「その存在を直接証明する一次史料は一つもない」、「何月何日にどこでおこなわれ、参加メンバーは具体的にだれなのか、は一次史料で立証できない」と。
 通説では、小山評定の席上、山内一豊が自分の城を家康に明け渡すと言い出し、諸将もそれに追随し、東海道の大名たちが家康の味方をしたため、家康は関ヶ原の戦いの後、一豊に掛川5万石から一挙に土佐24万石を与えて大出世させたということが云われますが、大出世ではないということが、渡辺淳氏の「検証・山内一豊伝説ー『内助の功』と『大出世』の虚実」で見解が示され、講演会でその内容が紹介されています。
 すなわち、「土佐藩20万2600石の初見は慶長10年」で、「山内一豊が土佐に入国した時の領知高は長宗我部氏の9万8000石を引き継いだ」、「よって、わずか1.7倍(掛川5万9000石から土佐9万8000石)の平凡な出世になる」、「最も重要な働きをした福島正則で2.9倍(尾張清須24万石から安芸広島49万石8000石)、黒田長政的で2.9倍(豊前中津18万2000石から筑前福岡52万3100石)」、「こう考えると、山内一豊だけが5倍近い加増ということが、そもそも不自然である」と。
 山内一豊の加増ということについては、11月に名古屋大学で行われた「織豊期研究会」のシンポジウムの、長屋隆幸氏の「大坂の陣における土佐藩山内家」の中で、次のように指摘されていました。
 すなわち、「初代一豊が養嗣子忠義へ恙無く藩を継承させるために、長宗我部時代に9万8000石であった石高を、慶長10(1605)年の幕府の郷帳(御前帳)作成時に20万石であると報告したため、過大な軍役がかかることになってしまった」などと。
 小山評定の問題に戻れば、講演会で、「通説では、家康は本営の宇都宮城に入らず、7月24日〜8月4日までの11日間もの間、家康は小山に在陣(野営)していた、としているが、このようなことがありえるのか?」、「小山から宇都宮は近距離にあるが、目の前の本営である宇都宮城に入らずに小山から引き返したのは本当か?」と指摘されています。

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