追悼 堺屋太一氏 石田三成の実像2558 堺屋氏の小説「巨いなる企て」

 堺屋太一氏の逝去を知ったのは、2月10日、大阪府立住吉高校の旧職員による淡路島旅行から戻ってニュースを見た時でした。堺屋氏は住吉高校の出身で、昭和57年に行われた創立60周年記念式典の際、講演をしていただきました。住高生の自由で柔軟な校風が21世紀の変革の時代に必要であると強調し、21世紀には、少品種大量生産の時代は終わり、多品種少量生産という多様性の時代が来ると予見されていました。ご冥福をお祈り申し上げます。
 堺屋氏は、昭和45年の大阪万博のプロジェクトを中心となって成功させた官僚として有名ですが、彼の小説に、石田三成を主人公にした「巨(おお)いなる企て」があります。大大名の家康に挑むべく、中小大名の三成がいかにプロジェクトを立ち上げて、関ヶ原の戦いに持っていったかを解明した作品です。三成が関西弁で話しているのもリアリティがあります。もっとも、最近の研究では、関ヶ原の戦いは、家康対三成という構図ではなく、毛利輝元・宇喜多秀家の二大老と三成・増田長盛・長束正家・前田玄以の四奉行による豊臣公儀対公儀性を奪われた家康方部将との戦いであったという見解が主流になってきていますが。
 「巨いなる企て」では、三成が考えた巨大プロジェクトの第一は、大義名分を掲げることであり、秀吉の遺命を忠実に守り、豊臣政権を安泰ならしめることだと説明されています。第二は、スポンサーの獲得であり、プロジェクトに参加してくれる理解と情熱と資金の持ち主であるスポンサーを宇喜多秀家に求めました。第三は象徴的人物のかつぎ出しであり、三成は毛利輝元にそれを求めたと云います。
 三成が中心となって、そういう組織を作ったかどうかは、実際のところ、はっきりしませんが、家康弾劾状である「内府ちかひの条々」の原案を作ったのは三成だと私は考えていますから、それ以来の豊臣公儀を引っ張って行ったのは三成ではないでしょうか。「内府ちかひの条々」の原案を作ったのが三成だと考える理由については、家康がどれだけ秀吉の遺命に違反することをしてきたかの罪状を十三ヶ条にわたってあげつらうのは、三成だからこそできたからではないかと思っているからです。起請文に三成が加わっている時は文面が長くなるという矢部健太郎氏の研究成果がありますし、理詰めで述べている印象があります。
 むろん、引退していた三成が、奉行に復帰したのは7月末か8月初めのことですから、「内府ちかひの条々」を出した時にはまだ奉行ではなかったために、三成の名はありません。
 さて、「巨いなる企て」では、三成はこのプロジェクトを実現するために、明石掃部、直江兼続、安国寺恵瓊などの諸大名の家老連合を作ったと説明されています。もっとも、恵瓊は単に毛利家の外交僧ではなく、豊臣公儀の中枢に近いスタンスであったと白峰旬氏によって指摘されています。また掃部は、宇喜多氏から半独立の恰好をとる「客分」だったと大西泰正氏によって指摘されています。

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