石田三成の実像2603 白峰旬氏「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」25

 白峰旬氏の「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」(『研究論集 歴史と文化 第3号』【株式会社歴史文化の研究所】)では、「茨城県史料」中世遍Ⅵに収録されている「喜連川文書」のうち、関ヶ原の戦い前後の関係文書が紹介されていますが、そのまとめとして種々の点が指摘されており、その続きで、⑥点目です。
 「喜連川頼氏の書状では、徳川秀忠は『中納言殿』というように殿付であるが、徳川家康は『内府』というように殿付でも様付でもないが、こうした差異をつけた理由はよくわからない」と。
 このことに関連して、家康の家臣に対して、薄礼の表記を使用していることについて、「喜連川氏の起因の高さに起因するものであろう」と白峰氏は指摘されていますが、家康に対しても「内府殿」「内府公」などという敬称を使わず、「内府」と呼び捨てにしていることも、そういう「格式の高さ」が原因しているのかもしれません。しかし、それなら秀忠に対しても「中納言」と呼び捨てにしているのなら一貫していますが、「中納言殿」という敬称を付けているのは、不思議なことです。むろん、書状の中には、「中納言」と呼び捨てにしているところもあり、すべてに「様」を付けているわけではありません。関ヶの戦いの時は、秀忠の信州仕置に参陣することを申し出たり、戦後は上方へはしばらく赴かず、江戸城の秀忠に挨拶に行っていますから、喜連川頼氏にとって、直接の関りは秀忠にあったでしょうから、そういう意味で、秀忠に敬語を使ったのかもしれません。このあたりは今後の検討課題だと思われます。
 なちみに、「内府ちかひの条々」では家康弾劾状であるにもかかわらず、「内府公」と敬語が使われています。それに対して、ほぼ同じ内容が記されている増田長盛、石田三成連署状には、「内府」と呼び捨てであり、ここに三成の気持ちが表れていると、桐野作人氏は指摘されていますが、私もその意見に賛同します。
 さて、まとめの⑦点目は、次の通りです。
 「喜連川頼氏の書状の宛所を見ると、山中長俊、増田長盛(豊臣公儀の取次)、大久保忠隣、井伊直政、本多正信、城昌茂(徳川家の重臣、或いは家臣)という二つのグループのほか、蒲生秀行(宇都宮城在番)、大田原晴清(大田原城主)、皆川広照(大田原城在番)のように前線に近い徳川方の城(大田原城、宇都宮城)の城主や在番大名のグループに対して出していることもわかる、というようになる」と。
 喜連川頼氏は上杉攻め前後、豊臣公儀の取次、徳川方武将、関東の諸将たちと連携し、緊密なネットワークを築いていたわけですが、喜連川頼氏だけでなく、関東の諸将は互いに連絡を取り合っていたものと思われます。もっとも、足利氏の末裔である喜連川頼氏は、その格式の高さから、関東の諸将は一目置いていたでしょうから、積極的に連絡を取り合っていたのかもしれません。

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