石田三成の実像2604 白峰旬氏「【付論】多賀谷文書」1 多賀谷三経宛書状 三経の烏帽子親は三成

 白峰旬氏の「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」(『研究論集 歴史と文化 第3号』【株式会社歴史文化の研究所】)では、「茨城県史料」中世遍Ⅵに収録されている「喜連川文書」のうち、関ヶ原の戦い前後の関係文書が紹介されていますが、【付論】として多賀谷文書のいくつかも取り上げられています。
 まず「(慶長5年)12月28日付多賀谷三経ヵ宛本多正信書状」について、次のように解説されています。
 「内容としては、『来春』は『会津へ可為御動候間』、その時に『以面上萬ゝ可申達候』としている。この書状について、373頁では慶長4年に比定しているが、慶長4年12月の時点で上杉討伐が予定されていたとは考えられない(時期的に早すぎる)。上杉景勝が上洛するのは慶長6年7月であるので、慶長5年12月の時点では、来春(=慶長6年春)の会津への軍事行動は十分想定されていたはずなので、この書状は慶長5年に比定すべきである」と。
 多賀谷三経は、烏帽子親となった三成の一字「三」をもらっています。
 父親の多賀谷重経は、秀吉による北条攻めの際、三成の別動隊に関東の諸将と共に属して、忍城攻めに加わっています。その関東の諸将のメンバーについて、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、「佐竹義宣以下、宇都宮国綱・結城晴朝・多賀谷重経・水谷勝俊・天徳寺宝衍(佐野房綱)ら関東の諸将」と記されています。
 その典拠は、天正18年5月28日付豊臣秀吉朱印状、及び同年6月7日付加藤清正宛豊臣秀吉朱印状の記述が挙げられています。
 オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「武蔵・忍」の章で、忍城攻めには、関東の諸将の他に大谷吉継、長束正家、真田昌幸も加わっていることが記され、「忍城攻めで三成とともに戦った多くの武将は、戦後、関ヶ原まで三成と行動をともにし、家康と対立する立場をとった」と指摘されています。多賀谷重経については、次のように述べられています。
 「関ヶ原で西軍(上杉方)に属し、戦後改易。のち彦根で病死」
 同書では、「忍城攻めを身近で見ていた彼らこそが、この戦いが三成の戦下手を示したものでないことを知っていた」と論じられています。三成は忍城の水攻めに失敗し、戦下手のレッテルを貼られがちですが、水攻めは秀吉の命令であり、三成自身は水攻めに反対していたという中井俊一郎氏の見解が示されています。
 多賀谷氏は北条攻めの後、秀吉の命により結城秀康の家臣になりましたが、重経は反旗を翻したものの、三経は、そのまま結城氏のもとに留まり、父と違う道をたどりました。関ヶ原の戦いの際も、重経は上杉方に付きましたが、三経は結城氏に従いましたから、父子は敵味方に分かれたわけです。

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