関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2607 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」2

<<   作成日時 : 2019/04/18 10:31   >>

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 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、@「慶長3年9月5日、徳川家康は毛利秀元・浅野長政・石田三成らを博多へつかわすことにした」ということについて、次のように説明されています。
 「政権の運営をの運営をたくされた徳川家康にとって最初にとりくむべき課題は、和平交渉のとりまとめと、朝鮮へ送り込んだ人数の引き揚げです。徳川家康は、三人の年寄(前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元)、五人の奉行(浅野長政・増田長盛・長束正家・石田三成・前田玄以)らと相談し、8月28日、見回りとして徳永寿昌・宮木豊盛ら二人をつかわし、さらに現地での指揮をするものとして毛利秀元・浅野長政・石田三成ら三人を筑前博多へつかわすこととしました」と。
 そのことを示す史料として、姜の「看羊録」、8月28日付黒田長政宛家康・利家・秀家・輝元連署状が挙げられています。
 このうち、「看羊録」には、「家康らが、石田治部少輔に、朝鮮に往って義弘・清正・行長を呼びもどすよう、命令した」と記されています。しかし、実態は高橋氏の説明にもあるように、四大老と五奉行の相談によって三成らの派遣が決まったわけで、この朝鮮の撤退が、五大老(上杉景勝は不在)・五奉行の合議によって決まったと云えるのではないでしょうか。前作でも指摘されていたように、五大老・五奉行制はなかったというのが高橋氏の見解ですが、この決定自身が、制度が機能していたことを示すものだという思いを持ちます。
 このことに関して、谷徹也氏の「総論 石田三成論」の「『五大老』『五奉行』の成立」の中で、次のように記されています。
 「とりわけ、秀吉が重視したのは家康であり、日本全土の統治権を家康に委ねて、秀頼成人の暁には政権を返すよう約束を交わした後、家康と同等の権威を有するものとして『五大老』を選び、彼らの力が大きくなり過ぎないために、実質的な統治者として『五奉行』を設定したと宣教師は伝えている」と。
 秀吉は秀頼が成人するまで政権を家康に譲ったというのが高橋氏の見解ですが、たとえ、そうだとしても、家康を牽制するために「五大老」、「実質的な統治者として『五奉行』を設定した」というのが実際のところではなかったでしょうか。家康の暴走を許さないための五大老・五奉行制だったと思いますし、朝鮮半島からの撤兵もその制度が機能した証だったと考えます。

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