関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2608 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」3  

<<   作成日時 : 2019/04/19 18:35   >>

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 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、@「慶長3年9月5日、徳川家康は毛利秀元・浅野長政・石田三成らを博多へつかわすことにした」ということに関して、同日付で朝鮮在陣の諸将に宛てた、徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元連署状が史料として取り上げられ、次のように現代語訳されています。
 「わざと飛脚をもって申しつかわします。
 一、朝鮮との和平交渉については、これまでは加藤清正主導によって行なうようにとの(豊臣秀吉様の)ご指示でした。しかし、加藤清正によってまとめることが出来ないようであれば、誰が交渉してもよいので、とりいそぎ、まとめるように才覚することが大切です。
 一、和平交渉の内容については、朝鮮の王子が人質として日本にくることが望ましいのですが、もしそれが出来ないようであれば、貢物だけでもかまいません。日本が勝ったという形式さえととのえば、貢物の量が多いか少ないかにこだわる必要はありませんので、おのおのが相談し、しかるべくように取り決めてください。
 一、(豊臣秀吉様の、あるいは豊臣政権の)許可を得ようとすれば、遅くなり、冬じゅうには間に合わなくなってしまいますから、確認をせずに取りまとめてもかまいません。(豊臣秀吉様が)和平交渉をまとめよとおっしゃった以上、その条件は貢物であろうと、人質の王子であろうと、それは問題ではありませんので、とにかく和平交渉を取りまとめてください。
 一、日本へ帰るための迎えの舟は、豊臣秀吉様の指示によって作られた新しい舟百艘と、そのほかにあちこちの浦から集めた二百艘、あわせて三百艘を順次そちらへつかわします。
 一、徳川家康・毛利輝元・宇喜多秀家ら三人の年寄が博多へおもむいて、日本への帰還のことを現地で指示しようとしたのですが、(五人の奉行に)人数(兵力)は必要ないだろうととめられましたので、よく考え、その結果、毛利秀元・浅野長政・石田三成ら三人をつかわすこととしました。そちらの状況によっては(朝鮮へ)渡海して、現地で指示をすることになるかもしれませんが、よく相談してください」と。
 なんとしても和平を整えて撤兵しようという意図が見え見えですが、これについて、高橋氏の同書では、「和平交渉の条件については、日本が勝利したという名目であれば内容にはこだわる必要がないことになりました」と解説されています。清正は、文禄の役で小西行長らとは別ルートで和平交渉を整えようとしていましたし、清正がその途中で日本に戻ってきたのも三成の讒言で秀吉に謹慎を命じられたからではなく、明使を日本に迎え和平交渉をする中で清正の帰国が何らかの意味を持っていたという鳥津亮二氏の見解があります。慶長の役でも、清正に和平交渉役が託されていたわけです。

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