三成の実像2609 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」4

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、①「慶長3年9月5日、徳川家康は毛利秀元・浅野長政・石田三成らを博多へつかわすことにした」ということに関して、同日付で朝鮮在陣の諸将に宛てた、徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元連署状が史料として取り上げられていますが、その中の「人数不人之由被申止候間(人数は必要ないと止められた)」という記述について、次のように指摘されています。
 「徳川家康・毛利輝元・宇喜多秀家ら三人の年寄を『申し止めた』のは浅野長政・増田長盛・長束正家・石田三成・前田玄以ら五人の奉行であることが9月4日付黒田長政宛浅野長政・増田長盛・長束正家・石田三成・前田玄以連署書状によって分かります。ただし、豊臣秀吉が死去した直後ですので、徳川家康・毛利輝元・宇喜多秀家ら三人の年寄が長期間伏見を留守にすることは、この時点ではありえません。
 しかもこのうち徳川家康については、常時伏見に在城することが、豊臣秀吉の遺命によって義務付けられているはずです。おそらくこの条目は、豊臣秀吉の死去を隠蔽するためのブラフでしょう」と。
 秀吉の死去に関しては、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、次のように記されています。
 「三成ら五人の奉行衆は8月25日付で在朝鮮の諸将に対して連署状を発し、徳永寿昌(式部卿法印)と宮木豊盛(長次)の派遣を報じる。この両名は、内々に秀吉の死を告げ、半島からの将兵撤退を促すために朝鮮へ渡る。しかしながら、機密はあくまで口頭伝達に拠るものであり、連署状には実際は没している秀吉の『御快気』が語られている」と。
 口頭で秀吉の死は伝えられたものの、書状ではそれが「隠蔽」されているわけです。書状が万が一敵の手に渡ったら、「機密」が漏れてしまいますから、それを恐れたのでしょう。
 秀吉の死の直後、家康と五奉行との関係が不和であったという認識が、少なくとも毛利家にあったことが、中野氏の同書に記されています。その典拠として、9月2日付の輝元の重臣である内藤周竹書状写の記述が挙げられています。
 すなわち、「五人の奉行らと家康との関係が不和であるとのことだが、わが毛利家が巧にその仲介を行なうことが安国寺(恵瓊)の御使によって伝えられた」と。
 この不和は9月3日付で、五大老と五奉行との間に、連署起請文が取り交わすことで、収拾がはかられたということも、中野氏の同書に記されています。この連署起請文で大事な指摘は、「公儀の担い手として、彼らは10名は同格の存在であることを相互に認め合っことになる」という点です。これは家康が秀吉死後、秀頼の後見人として政権を運営していたという高橋氏の見解とは異なるものです。

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