関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像2610 白峰旬氏「【付論】多賀谷文書」3 多賀谷三経宛書状3・三経は三成の養子? 

<<   作成日時 : 2019/04/21 11:09   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 白峰旬氏の「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」(『研究論集 歴史と文化 第3号』【株式会社歴史文化の研究所】)の【付論】として多賀谷文書のいくつかも取り上げられていますが、そのうち「(慶長5年ヵ)6月23日付多賀谷三経宛結城秀康書状」(4月16日付の拙ブログ記事で取り上げた書状とは別文書です)について次のように解説されています。
 「内容的には、@(6月)22日巳の刻に、多賀谷三経が着いたとのことで、一段と急がれたからと『我等令満足』している、A『其元』では油断なく精を入れることが専要である、B家康(『内府様』)も(6月)26日には江戸まで着く(予定)であるので、そのように心得てほしい、としている。
 この書状が慶長5年のものであれば、上記Aについては、上杉討伐との関係が想定される」と。
 4月16日付の拙ブログ記事で取り上げた、6月23日付の書状を秀康が出した後に、三経が着いたとの知らせが届いたので、急いで上記の書状を出したものと思われます。書状では家康は6月26日に着く予定と記されていますが、実際に家康が江戸に着いたのは7月2日のことです(『当代記』)。ちなみに、家康が上杉攻めに向けて大坂を出立したのは、6月16日のことです(『言経卿記』)。 
 ところで、三経については、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)について、次のような記述があります。
 「(重経の)嫡子・三経は三成の養子になり、慶長3年に三成から結城秀康に託され、その家臣になったとの説と、佐竹義宣の弟・宣家を嗣子としたため、父と袂を分かち結城秀康に仕えたとも言われている」と。
 三経が三成の養子になったのかどうかは、今後の検討課題ですが、もしそうなら、関ヶ原の戦いにおける三経の胸内には余計複雑な思いが宿っていたに違いありません。もっとも、上記の書状の段階では、豊臣公儀による上杉攻めが行われようとしており、三経は豊臣公儀の命令のもと上杉氏との戦いに備えようとしていましたから、それほど悩みはなかったでしょうが、三成たちが挙兵して、「内府ちかひの条々」が出されて、家康の公儀制が失われてから(白峰氏の見解)は、心の葛藤があったと推察されます。
 関ヶ原の戦いの後の宣家については、白川氏の同書には、次のように記されています。
 「佐竹義宣とともに出羽に下り、檜山城代を勤め、のち、甥の岩城吉隆が久保田藩佐竹義宣の後継者として宗家入りしたため、出羽亀田藩主となり、名を岩城但馬守宣隆と改めている。妻は真田幸村の娘・お田(顕性院)であり、寛永3年(1625)に兄・義宣と上京した時に結ばれている」と。
 宣家については、拙ブログ記事でも以前触れました。
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像2610 白峰旬氏「【付論】多賀谷文書」3 多賀谷三経宛書状3・三経は三成の養子?  関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる